【音楽】プリンス “Colonized Mind” ― 植民地根性って?

2018-06-03♪音楽, 英語の話

惜しくも亡くなってしまったプリンスに “Colonized Mind” という曲がある。2009年発売の3枚組アルバムの1枚目 “Lotusflow3r” に収録されている。シンプルな歌詞は鋭利な現代批判になっている。そこには彼のエスニシティを含めた歴史の重層性が織り込まれている。

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Colonized Mindとは何なのだろう?

短い歌詞の射程は広く深い。こう始まる。

Upload: the evolution principle
U c a rock on the shore and say
“it’s always been there”
Download: no responsibility
Do what you want nobody cares
Upload: the master race idea
Genetically disposed 2 rule the world
Download: a future full of isolated
Full of isolated boys and girls
“Colonized Mind”

進化の法則から始まって、支配-被支配という人類史を貫く政治力学が提示される。支配される側の総称が曲のタイトル “colonized mind” だ。mind はここでは「人」を差す集合名詞。植民地化されたこころ。隷従する精神。

「岩」はずっと浜にあった。誰のものでもない。欲しければ手に入れればいい。支配者の遺伝子に生まれついた者にはその権利がある。そして支配の結果、”isolated” な少年少女が再生産される未来が作られてきた。これが人類史のあらましというわけだ。

それにつけても “isolated” とは何から引き離され、孤立することなのだろう?プリンスは “isolation” が “colonized mind” の属性だというのである。この問いには後で帰ってこよう。

孤立は地続きで現代へ

2番では孤立の舞台は現代アメリカ政治だ。3番では音楽産業へ舞台が移る。

そして古代と現代をつなぐように繰り返されるのが次のリフレインだ。

If you look, ur sure gonna find
Thruout mankind’s history
A colonized mind
The one in power makes law
Under which the colonized fall
But without god it’s just the blind leading the blind

“colonized mind” とは誰か?

無理やり欧米へ連れ去られた夥しい数の奴隷たちのことなのか?それともアフリカや中南米やアジアで、つい最近まで植民地支配を受けた人々のことなのか?

権力者が法を作り、被支配者を跪かせる。神なき世界でそれは「盲人が盲人を率いる」だけのこと。権力者も被支配者も盲人である点では変わりない、とプリンスはいう。この「法」、「神」、「盲人」によって彼は何を言いたかったのだろうか?

Land of Colonized Mind

文字通りの植民地では、宗主国の権益と結びついた開発独裁が指導層と平民の間を引き裂き、差別を固定化した。抵抗する気もなく力もない平民が盲人なら、支配者の走狗になって恥じない指導層もまた盲人である。

ひるがえって日本はどうか?

敗戦でメンタルは完全にコロニー化した。その遺物が、日大アメフトの指導者であり、相撲協会の理事会であり、早期英語教育を推進する中教審だ。政治家も同じだ。周回遅れのグローバリズム翼賛会ではないか。自分にしか関心がない国民も盲人でないとはいえないだろう。

Colonized Mind の問題は普遍的

事は欧米でも変わりない。

19世紀以来、この「神なき世界の “法” への隷属」を問題視し、葛藤し、苦しみ続けてきたのは他ならぬヨーロッパなのだ。彼らはいち早く「神」を追い出し(宗教改革とフランス革命)、自由の身となった。自然科学が発展し、経済が拡大し、国は富み、さあイケイケドンドンという時代、人々は実は不安で不安で仕方がなかったのだ。19世紀後半から20世紀前半の知識人は文字通り “呻いている”。

  • 自由意志(理性)は本当に「神」の代わりになるのか?
  • なぜ金銭が「法」になってしまったのか?
  • なぜ伝統を壊すことがそんなに素晴らしいのか?

彼らはこの自己批判を “ユダヤ的なるもの” と規定し(ユダヤ人の自由さと活躍は確かに目立っていたが、本来は “アーリア的なるもの” というべきところだった)、何とか自分たちの不安とやるせなさを払拭しようとした。

その帰結は最悪だった。自己批判が実在のユダヤ人に向かい、アウシュビッツで頂点に達した。

戦後もヨーロッパは混迷を続けたままだ。アメリカ人の能天気さはそこにない。アメリカ人は “ユダヤ的なるもの” を問うだけの伝統を内部に持たない。その分だけ救いがあるが、逆に言うと永久に戻るべき世界(参照すべき伝統)を持たないので不幸なのだ。国自体、ヨーロッパが “colonized mind” に囚われた後に始まったのだから。

でも日本はアメリカ人のお気軽さを笑えるだろうか?ヨーロッパ人の苦悩を理解しているだろうか?

こうして見てくると、プリンスの問いは単に黒人差別や植民地主義の負の遺産に関わるだけでなく、現代人全般に当てはまることがわかると思う。問いの射程は広く深いのだ。

 

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