【語源学】リンガ・フランカとは何か?その由来と歴史

2018-05-29英語の話, 語源学

(アイキャッチ画像出典:http://slideplayer.com/)

インターネット上の使用言語(出典:レコードチャイナ)

いまや17億人以上の話者人口を誇る英語。インターネットの世界でもトップの地位を占める。

そのため、よく英語は現代の国際語とか共通語とかいわれる。しかし歴史的タームとしてはリンガ・フランカ(lingua franca)といった方が正確だ。今回はリンガ・フランカとは何なのかを簡単に説明しよう。

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リンガ・フランカの語源

そもそもリンガ・フランカとは何か?なんで「フランカ」なのか?

直訳すれば、その意味は “language of Franks”、「フランク人の言語」なのだが、別にフランク語を指しているわけではない。母国語が異なりそのままではコミュニケーションがとれない人々の間で発達した共通言語をリンガ・フランカと呼ぶのだ。

宗教戦争と交易

時代はAD5~9世紀に遡る。ヨーロッパ大陸の内陸部でゲルマン系のフランク人が勢力を伸ばし始め、フランク王国となって西ヨーロッパを支配した。

その頃から東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を「フランク人」と呼ぶようになったのである。

出典:小学館 日本大百科全書

だからリンガ・フランカとは「ヨーロッパ人同士が意思疎通するときに使う言葉」という意味になる。なぜ一か所に何カ国もの人間が集まったかといえば、十字軍その他の騎士団のイスラム遠征である。そして、それに伴う通商・文化交流である。

出典Connection between “lingua franca” and Frankish people

To understand what the Lingua Franca was, you kind of have to understand the cultural nature of the Ottoman empire. The Ottomans called Europeans “Franks”. The Ottomans controlled all of the lower Mediterranean (Algeria, Libya, Egypt, Palestine, etc). Now, you might expect the common language to adopted to be Turkish, or maybe Arabic, but this is not what happened.

The Turks were very isolated in their rule. They would just send a few tax collectors around and soldiers, but they made no effort to culturally rule their subjects, who were a mixture of local people, Arabs, Greeks and others, all speaking different languages.

リンガ・フランカの何たるかを理解するには、オスマン帝国(トルコ)の文化的特質を押さえておく必要がある。オスマン帝国ではヨーロッパ人を「フランク」と呼んでいた。オスマン帝国は地中海の下半分(アルジェリア、リビア、エジプト、パレスチナなど)を支配していた。そうであれば、その地域ではトルコ語またはアラビア語が国際共通語になるのが普通だが、実際にはそうならなかった。

トルコ本国は非干渉主義だったのだ。徴税官や兵士は支配地域に送ったが、アラブ人、ギリシャ人など違う言葉を話す多様な民族に対して文化的支配は行わなかった。

The French, however, adopted a completely different policy which was to educate anyone they came into contact with. You may have heard of the “Knights Hospitaller”, a Christian order. These men set up hospitals and schools everywhere. There were many other such organizations. So, what this meant is that in all the cities of the Ottoman empire were little groups of French making schools and it was common for the rich or educated, even though they were Muslim to attend these schools.

これと逆の方針だったのがフランス人だ。フランス人は自分たちが接触する者を教育した。中世ヨーロッパの宗教騎士団「聖ヨハネ騎士団」については聞いたことがあるだろう。騎士団はあちこちに病院、学校、その他の施設を設立したが、オスマン帝国領内も例外ではなかった。フランス人はオスマン帝国の主要都市すべてにフランスの学校を作ったのだが、次第に、教育熱心なイスラム富裕層の子弟を受け入れるようになっていった。

The result of all this is that the French language became the basis of a polyglot throughout the Ottoman empire which was combined with Greek, Arabic etc. This common language became known as the “Lingua Franca”.

その結果、オスマン帝国の多言語環境から、フランス語をベースに、ギリシャ語、アラビア語などから必要な語彙を借用した共通語が出来ていった。それがリンガ・フランカである。

<引用記事終わり>

聖ヨハネ騎士団の本拠地だったマルタ島の要塞都市ヴァレッタ(出典:http://yuuma7.com/)

国際組織の長い歴史

ヨーロッパは早くから国際化した。その淵源は一神教の普及と交易の拡大にある。

フランスが外交の国といわれる理由の一端は、この聖ヨハネ騎士団という多言語環境におけるフランス騎士館の教育(すなわち言語)の普及努力にある。

騎士館はlangueと呼ばれ、母国語別にフランス、オーヴェルニュ、プロヴァンス、イタリア、イングランド、ドイツ、アラゴン、カスティーリャの8つに分かれていたというから、文字通りの多言語環境である。聖ヨハネ騎士団はその後、ロードス騎士団(ギリシャ)→マルタ騎士団(イタリア)と変遷し、一種の独立国家として存続した。いまもローマに本部を構える現役である。

古代のリンガ・フランカ

古代メソポタミアには言語系統の異なるシュメール語と隣接の諸民族の言語を仲立ちする言葉としてアッカド語(Akkadian)がリンガ・フランカとして活躍した。

出典Akkadian

Akkadian was a semitic language spoken in Mesopotamia (modern Iraq and Syria) between about 2,800 BC and 500 AD. It was named after the city of Akkad and first appeared in Sumerian texts dating from 2,800 BC in the form of Akkadian names.

アッカド語はBC2800年頃からAD500年までの間、古代メソポタミアで話されたいたセム系言語。名称の由来は同地域の都市名アッカド。初出はアッカド名を記したBC2800年頃のシュメール語テキスト。

The Akkadian cuneiform script was adapted from Sumerian cuneiform in about 2,350 BC. At the same time, many Sumerian words were borrowed into Akkadian, and Sumerian logograms were given both Sumerian and Akkadian readings.

In many ways the process of adapting the Sumerian script to the Akkadian language resembles the way the Chinese script was adapted to write Japanese. Akkadian, like Japanese, was polysyllabic and used a range of inflections while Sumerian, like Chinese, had few inflections.

BC2350年頃、アッカド人はシュメール語の楔形文字をベースにアッカド楔形文字をつくった。このとき大量のシュメール語の単語を借した。シュメール語のみならずアッカド語を読む際にも、シュメール語の表語文字を使った。

アッカド語楔形文字の一部(出典:https://www.omniglot.com)

このシュメール文字による自国語表記の過程は、多くの面で日本語の漢字表記の過程に似ている。アッカド語は日本語と同じく多音節語で屈折語(語尾変化あり)で、シュメール語は中国と同じくほとんど屈折(語尾変化)しない言葉だから、文字を移植する際に同じような現象が起きたのである。

A large corpus of Akkadian texts and text fragments numbering hundreds of thousands has been excavated. They include mythology, legal and scientific texts, correspondence and so on. During the 2nd millenium BC the Akkadian language developed into two variants, Assyrian and Babylonian, in Assyria and Babylon.

これまで、神話、法律、科学、通信文をはじめ膨大な量のアッカド語テキストや資料の断片が発掘されているが、BC2000年代にアッカド語はアッシリア方言とバビロニア方言に分化していった。

Akkadian became the lingua franca of the ancient Near East, but started to be replaced by Aramaic by the 8th century BC. After that it continued to be used mainly by scholars and priests and the last known example of written Akkadian dates from the 1st century AD.

こうしてアッカド語は古代近東のリンガ・フランカになったが、BC8世紀以降、アラム語に取って代わられていった。以後、学者や聖職者など限られた人たちの言葉として命脈を保っていたが、現在わかっている範囲では、最後にアッカド語で資料が書かれたのはAD1世紀である。

<引用記事終わり>

アッカドとシュメールの位置関係 (出典:世界の歴史まっぷ)

wikipediaの解説にあるように、アッカド語はアッシリア・バビロニア語(Assyro-Babylonian)とも呼ばれ、主にアッシリア人やカルデア人(バビロニア人)やミタンニ人に話されていた言語である。

 

 

 

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