【文化考】現代日本人が生きる縮減された「愛」の世界

2019-03-06宗教, 文明文化の話, 歴史, 英語の話

いまの人は「愛」と何気なく使いますが、このことばは実に厄介で曲者です。男女の仲も厄介で曲者ですが、単語自体も問題含みなのです。今回は「愛」について考えてみましょう。

※2019.2.26 加筆・修整

愛の来歴

「愛」は他の多くの漢語同様、仏典から日本語に入ったと言われます。

輸入当初の意味は、大辞泉の掲げる6番目の定義に近かったと思われます。

仏教で、主として貪愛(とんあい)のこと。自我の欲望に根ざし解脱(げだつ)を妨げるもの。

「貪愛」(むさぼる愛)、他には「渇愛」(かつえる愛)などの説明もされることがあり仰々しいのですが、要するに「足らない、足らないと、いとしいと思う対象に執着するさま」を表します。これは仏教の十二因縁の8番目に挙げられている「愛」、人を苦しめる根本因のひとつとしての「愛」です。仏典を中国語に翻訳したときサンスクリット語のトルシュナーに「愛」の字が宛てられたのです。

愛の持つ意味の広がり

ところがインド哲学の碩学・中村元さんの書いた愛に関する記事を読むと、その解釈は一面的すぎることがわかります。

中村さんは、仏教は「愛」を否定的に捉えているという俗説を疑問視しています。

  • 「愛」は確かに十二因縁のトルシュナーを意味するが、それだけではない。発生順にいうと「欲する」「願う」「愛好する」「執着する」と来て、十二因縁の「貪愛」「渇愛」になり、さらには「執着して自分のものにしたい」と思うところから「所有する」の意味さえ生じた。
  • 別系統の意味では「こころが喜ぶ」(徳性のひとつ)、あるいは「人から好ましく思われる」、さらに一般的な意味での「愛情」(サンスクリット語のプレマン、preman)を意味する流れもある。とくに現代のヒンドゥー教ではpremanから来るprema(愛情)が強調され、「愛情をもって人々に奉仕する」ことが宗教の生命と考えられている。
  • 大乗仏典になると「愛」の字には、慈悲と同様の「愛他」(自分の子どもを愛するように衆生を愛する)の意味も担っている用例がある。
  • 文明批評家の類は、明治に西洋思想に入ってくるまで日本語に「〇〇を愛す」「××を愛する」という言い方はなかったというが、すでに漢訳仏典に「座禅を愛す」「法を愛す」など動詞的用法が存在する。

慈悲と性愛

俗流解説では、キリスト教の慈愛(charity)との対比で仏教の慈悲を取り上げることがあります。仏教ではネガティブ(低俗)な「愛」に対して、ポジティブ(高尚)な「慈悲」があるというロジックです。漢訳時に深いいつくしみ(マイトリー)が「慈」と、深い憐れみを表すカルナーが「悲」と訳されたそうです。イメージ的には「慈」は横へ広がる友愛、「悲」は上から降り注がれる憐憫となるでしょうか。両者を合わせれば最高度の「愛」、菩薩や阿弥陀の次元の深い「愛」が表現されることになります。

しかし、先ほどの中村解説によると漢訳仏典においても高次の慈悲を「愛」の字で表現している用例があるそうです。

また「愛」ということから現代人が最も連想やすい恋愛(性愛)には「愛」の字ではなく「婬」(いん)の字が使われる場面も多かったと言います。

このように「愛」はことがことなだけに多様な広がりを持っているわけです。当然、日本語の「愛」にはインドや中国の要素の他に日本人の情感がこめられ今日に至っていることになります。

中国語の愛

ちなみに中国オリジナルの儒教で上記の「愛」や「慈愛」に相当する概念は「仁」です。中国語としての「愛」の基本語義は主体としての愛慕の念を表し、その限りでは日本語の「愛」とほぼ同じです。しかし「○○が容易である」「××しやすい」という意味もあるそうです。古代漢語では「愛」が「〇〇を惜しむ」というケチ臭い感情の意味に用いられているとか。

白川博士は「字統」の中で、「愛」について、「後ろを顧みて立つ人の形を表わす字形と「心」の会意文字である。後に心を残しながら立ち去ろうとする人の姿を写したものであろうとしている。

とありますから、上古の「愛」はしみじみとした感情を表していたのでしょう。その後の漢民族の歴史がニュアンスを変えていったのかもしれません。

 

明治期の愛の用例

「愛」の語義に関して明治と現代が地続きであることは、以下の泉鏡花の用例に明らかです。現代人の視覚には読みにくい文章ですが、語られている内容は少しも古くありません。

たゞ愛のためには必ずしも我といふ一種勝手次第なる観念の起るものにあらず、完全なる愛は「無我」のまたの名なり。ゆゑに愛のためにせむか、他に与へらるゝものは、難といへども、苦といへども、喜んで、あまんじて、これをく。元来不幸といひ、窮苦といひ、艱難辛苦かんなんしんくといふもの、皆我を我としたる我をもつて、他に――社会に――対するより起る処の怨言ゑんげんのみ。愛によりて我なかりせば、いづくんぞそれ苦楽あらむや。

情死、駈落、勘当等、これ皆愛の分弁たり。すなはち其人のために喜び、其人のために祝して、これをめでたしといはむも可なり。但社会のためには歎ずべきのみ。

かいつまんで現代語に直すと、次のような感じになります。

誰かを本当に愛すと、自分勝手な「我」は必ずし出てこない。完全な愛は「無我」の別名だ。だから、愛する者はどんな苦難が外から来ても、愛のために喜んで甘んじて受けるのである。そもそも、不幸とか困窮とか艱難辛苦とかいうものはみな「我」を通している人間の、社会に対する怨み言に過ぎない。愛によって「我」がなくなったら、苦とか楽とかが問題になろうか。

情死、駆け落ち、勘当。これらはみな愛する人が自ら選んだ行いである。彼らのためにはそれを喜び、祝い、めでたいと言ってかまわない。ただ、社会のためにはそれは嘆かわしいというだけの話である。

個人と結婚

人間は子として兄弟とし親として社会人として一市民として必ず他人に影響され他人に影響し、社会や国家や世界の都合に左右されずには生きれません。しかし・・・と鏡花は言うのです。唯一そうした他律的な生から逃れる道があると。

「愛によりて我なかりせば、いづくんぞそれ苦楽あらむや」。「愛」の中で「無我」の自在境に遊べば、愛する者と世間を超え出て、もう社会に怨言を吐く必要もなくなる、と。

もちろん叶わぬ理想です。そんな「無我」一生続けたいと思えば、心中するか、世間と隔絶した生活をするかしかありません。いまどき仏門に入るひとは少ないでしょう。日本人は宗教をそこまで信頼していませんから。

古来、三角関係と並んで情死が繰り返し描かれてきたのは、人が個人と社会の間で引き裂かれる運命にあるからです。心中ははた迷惑で世間的には「我を通す」行為です。でも本質的には「我を忘れる」行為なのです。

情死に限りません。時代や洋の東西を問わず、人には「我を超え出たい」という欲望があります。「我」が本当の己を束縛する檻のように感じられるのです。一見、束縛は「外にある」ように見えます。それでいろいろ解放されるために頑張るのですが、結局それは「内にある」ことに気づかざるをえません。

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我を超え出ること

西洋では心中より殉死が一般的なようです。なぜなら西洋哲学にはプラトン由来の太い流れが根底にあって、つねに我を超え出ることを指向するからです(プラトンのイデアとはその超え出た先を言います)。その傾向はキリスト教の神学に取り込まれました。これまで数多の殉職者が出ています。

日本人はそうした意味での「神」を持ちません。むしろ日本という国そのものにそういう「神」を感じる人が少なからずありました。ですから日本人の場合、「神」に殉じるより惚れた相手との関係の中での自我滅却を望みます。それに対し、西洋人のトッププライオリティは「神」との関係の中で究極の自我滅却を望むことです。他人は恋人や夫や妻であっても一種の「契約」相手に過ぎないのです。

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昨今の日本では鏡花の頃のように、婚姻(社会や国)に「我」を捧げることは魅力的に感じられなくなり、社会の強制力も薄れてきました。でも人「我」を超え出たい欲求はいまの人にもあります。そうなると現代人はパートナーとの遁世より、個としての自己完結を選ぶようです。ノマドワーカー、フリーター、ひきこもり、ワーキングホリデー、おひとりさまなどのライフスタイルはそのバリエーションと考えられます。

いい悪いの話ではなく、人間はもう「そこまで来ている」ということです。

 

多義的なギリシャ語の愛

さてキリスト教の世界の「愛」についても見てみましょう。キリスト教徒の自慢は、聖書がギリシャ語のアガペー(agape)すなわち「無償の愛」と呼ばれる高次元の愛を説いている点にあります。彼らはアガペーこそキリスト教と他宗教を画す思想の一大進化だと捉えているのです。

もちろん誤解なのですが、アガペーがそれくらいキリスト教の神の格を高めたコンセプトであることは確かです。もしキリスト教がユダヤ教と同じように「妬む神」「怒る神」のままの厳しい戒律宗教だったら、10億人以上の信者を獲得するような世界宗教にはなれなかったでしょう。そもそもローマ帝国の時点で弾圧されれ終わっていたかもしれません。

旧約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。以下の記事にあるように、”love” に相当することばがギリシャ語には少なくても6種類あるそうです。ところが、いかにも合理的な英語国民らしく “love” ひとつで済ましたせいで、次のような事態になっているといいます。

出典“The Ancient Greeks’ 6 Words for Love (And Why Knowing Them Can Change Your Life)”

They(Greeks) would have been shocked by our crudeness in using a single word both to whisper “l love you” over a candlelit meal and to casually sign an email “lots of love.
(中略)How can they inspire us to move beyond our current addiction to romantic love, which has 94 percent of young people hoping—but often failing—to find a unique soul mate who can satisfy all their emotional needs?”

「キャンドル越しのテーブルでカップルがささやく愛から、メールの締めの「元気でね」程度の愛まで、いかにもお手軽に “love” を乱用する様子を見たら、繊細に愛を使い分けていたギリシャ人はさぞかし面食らうだろう。94%の若者が愛と言えば男女の恋愛しか想像できず、狂おしくソウルメート(生涯の伴侶)を求めている現代人に、足りない愛の概念は何なのか?」


そういって記事の筆者がリストアップした愛は、Eros(sexual passion)、Philia(deep friendship)、Ludus(playful love) 、Agape(love for everyone)、Pragma(longstanding love)、Philautia(love of the self )の6つの愛です。

このうち聖書に出てくる愛は Agape と Philia の2つです。対比的にいえば、アガペーこそ神の領域の愛であり、フィリアは地上の愛に過ぎません。フィリアからアガペーへと階梯を上がっていくのがキリスト者としての精進という「構造」になっています。

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イエスの愛敵テーゼ

アガペーの愛はイエスにおいて「汝の敵を愛せよ」(「マタイによる福音書」5章44節)というかたちで先鋭化されます。

You have heard that it was said, ‘Love your neighbor and hate your enemy.’ But I tell you, love your enemies and pray for those who persecute you. (Matthew 5:43-44, New International Version)

「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(マタイ第5章43~44節)

この激越ともいえる戒めは、聖書の中心教義とも言える山上の垂訓(Sermon on the Mount)のコアになっています。

ちなみに「マタイによる福音書」は英語で “Gospel of Matthew” ですが、福音の原意は「(イエスからの)よい知らせ」くらいの意味です。gospel←古英語god spell(good message/story)←ラテン語bona adnuntiatio←ギリシャ語evangelion(reward for bringing good news)。エヴァンゲリン=ゴスペルなのです!

愛敵テーゼに関する文献学的な解説を読んでみましょう。

出典「宗教と教団:マタイ教団の歴史的現実と、「愛敵」をどう受け取る?」

本来、これらの実行困難な教えは、元々は律法学者やファリサイ派を批判したイエスの逆説的言葉であった。それをマタイ教団が置かれた社会情勢の中で、敵対するファリサイ派の掟に対抗して、より厳しくラジカルな実践綱領とした。しかし、これがある事でキリスト教は新律法主義となり、ファリサイ派と同様に多くの偽善者を出す弊害となった。

旧約の「隣人」は、同じ神への信仰をもつイスラエル同胞限定であり、神との契約共同体に入っている仲間限定である。しかし、律法を守れない徴税人や異邦人であるサマリヤ人やエドム人など非イスラエル人は、隣人ではない。旧約では、隣人(同胞)を愛すれば愛するほど、反比例して敵(異邦人)を憎む事になる。

現代でも、米国が正義で、米国に反対する者は敵と見做される。米国南部バイブルベルト地帯で愛敵を言おうものなら、非国民として教会から排除されるだろう。異常に神を愛すれば愛するほど、異端を憎悪して悪魔として虐殺し、異様に昂揚した宗教心は魔女狩りを引き起こす。神を愛し・正義を貫き・隣人を愛する事の裏返しが、敵を憎み聖絶させる事に繋がる(ヨシュア記の内容)。

一方イエスは、天の父が無条件・無差別で全てに愛を注がれているのだから、善人はおろか悪人・不正な人々をも愛せよと言う。迫害する敵たちの幸せさえ祈れとまで言う。驚くべき発言と言う以外にない。罪人、徴税人、異教徒を愛するのは、当時のユダヤ教では大罪を意味する。

簡単に言えば、律法学者やファリサイ派は神はひとつと言いながら敵を差別し、神を独占しようとするムラ意識を抜け出せていないということです。ユニバーサルなはずの神をローカルに押しとどめているのはユダヤの主流派自身ではないか、と。

難しいのはメッセージの意味ではなく、それを行動に移すことです。実際、愛敵テーゼ自体はそんなに難しいことを言っていません。アガペーを完成させるためには、どうしても踏み越えなければいけないステップがあり、それは「敵を尊重する」、あるいは「敵に敬意を持つ」ということなのです。物理的か精神的かは別として適認定した「相手を理解しよう」という寛容のこころです。

イエスが省略した部分を補うなら、

Respect and love your enemy.

もしくは

Understand to love your enemy.

ということなのです。イエスのメッセージは明らかでしょう。敵を迫害する前に「お前ら自身が先に変われ」です。でなければ「ユニバーサルな神などと言えないだろ?」と。こうした複雑な機微を持つ「愛」をギリシャ語の “agape” と訳した聖書編纂者はなかなか偉かったと思います。

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パウロの宗教へ

愛敵発言は “精神革命” を要求します。その困難さは皮肉にもイエスの磔刑によって証明されてしまったわけですが、もし使徒パウロ(Paul the apostle)という天才伝道師がいなければ、イエスの事績はとうに忘れ去られていたでしょう。

  • イエスの磔刑を世界史的イベントに仕立てあげ、人類の罪の贖いだとしたのはパウロです。
  • 愛敵を含むアガペーをユダヤローカルの次元から全人類への普遍的な愛に昇格させたのもパウロです。
  • その合わせ技で「愛と寛容と救済」のキリスト教を創作したのもパウロです。

つまりキリスト教はパウロの宗教なのです。

キリスト教という老舗会社

パウロはキリスト教の総合プロデューサーであり一大マーケッターです。聖書書記者はディレクターであり、使徒はアクターです。パウルの創立したキリスト教会社はローマを本拠として成長拡大し、15世紀の分社化(プロテスタント)を経て、2000年間事業拡大を続けてきました。17世紀当たりから「神」への愛が失われ始めると普遍主義(ユニバーサリズム)だけが成長エンジンとなり、自然科学が推進役を担います。アメリカはポスト「神」時代のベンチャー企業なのです。

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中国経由の日本への「愛」輸入

幕末期、英米のプロテスタント牧師が清国で盛んに宣教を行いました。その始めに中国訳聖書が作られたとき、英語聖書の “love” が “愛” と訳され、それがそのまま日本語訳聖書へ移植されました。当時の清で仏教はマイナー宗教であり、仏典に含まれる愛のネガティブな意味は忘却されていたと思われます。

東北人神父の違和感

「愛」という訳語への違和感をずっと抱いてきた人が現代東北の気仙沼地方にいました。山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)というカトリック信徒のお医者さんです。山浦さんは独学でギリシャ語を勉強し、独自のケセン語訳聖書を編纂してしまった偉い人です(ケセン語は気仙沼地方の方言)。

気仙沼地方というのは、ご存知の方は少ないかもしれませんが特異なキリシタン文化をもつ場所です。この地方で話されることばもまた独特なので、標準語の語感に違和感を感じる人が出ても不思議ではありません。山浦さんの出版したケセン語訳新約聖書では、アガペーはどのように訳されているのでしょうか?以下の記事から引用してみましょう。

出典「読書日記「イエスの言葉 ケセン語訳」(山浦玄嗣著、文藝春秋新書) 」

敵(かだギ)だってもどごまでも大事(でァじ)にし続(つづ)げろ。
(ケセン語訳/マタイ五・四四)
「ケセン語には愛ということばはない。・・・そういうことばは使わない」。山浦医師は、東北人らしく率直に切り出す。「愛している」なんて、こそばゆくて、むしずが走るようなことばだ。『神を愛する』なんて失礼な言葉はない。『お慕申し上げる』ならわかるが、『愛する』はないでしょう。ペットではあるまいし!」
「ギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳したために、聖書の言葉が日本人の心に届いていない」。420年ほど前のキリシタンは「大切にする」と訳し、「愛する」は妄執のことばとして嫌ったという。「『お前の敵を愛せ』は誤訳だ。イエスは『敵(かたギ)だっても大事(でアじ)にしろ。嫌なやつを大事にすることこそ人間として尊敬に値する』と言っているのだ」

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「御身お大切に」というときの「大切」がアガペーだというのです。これはなかなかアガペーの本質をついているのではないでしょうか。

「愛せ」は無理強いのにおいがします。愛は自然な感情として生まれるのですから、自然に敵を愛すなどほぼ不可能です。そんな理不尽よりは「大切」の方が「相手を尊重する」あるいは「敵に敬意を払う」というアガペーの第一段階の意義が伝わります。これなら日本の侍には違和感なく受け入れられたでしょう。尊重(敬意)から始めて、次第に愛情の方へ近づいていくことこそ、アガペーの本意、「愛の宗教」キリスト教の本意なのですから。

杉本博司演出による『杉本文楽 曾根崎心中付り観音廻り』

“愛” が狭すぎる

秀吉、家康と続くキリシタン禁制でキリスト教はシャットアウトされ、明治に再上陸しました。西洋の文物は何でも浴びるように受け入れ、技術や概念を呑み込み、日本語大改造に着手しました。その成果に関しては賞賛すべき点も多いのですが(このときの大量の西洋語の日本語化がなければ現代の中国語さえ成り立ちません)、こと宗教に関してはいい加減過ぎたように思います。

明治政府は江戸国学の流れを受け、神道を疑似一神教化しようとします。西洋列強の向こうを張るためです。邪魔なのは儒仏。政府は「廃仏毀釈」で神仏習合が築いていた「宗教エコロジー」をずたずたに破壊してしまいます。その結果が葬式仏教です。

そうなると往時の我執や「御大切」の言語感覚は失われ「愛」はもっぱら西洋的観念となって恋愛もしくは性愛のことばに降格されました。この降格の弊害は若い人たちへの無用なプレッシャーを与えます。恋愛コンプレックスもしくは恋愛フォビアの増殖です。いまだに社会は彼らを結婚の枠へ押し込もうとします。鏡花の時代と基本は変わりません。そういう「愛」環境では「自我」だけが肥大化し、最悪、暴走してしまいます。

ですが「愛」はいまも仏教の十二因縁と泉鏡花の忘我のにらめっこです。「妄執」であると同時に「妄執」を超えるものにもなりえるのです。せめてそれくらいは若い人々の意識に浮かぶくらい「愛」の間口を広げたら、「自我」はもっとくつげるのに、と思います。