【文化考】"愛" という誤訳:愛のごたまぜ

2018-11-11宗教, 文明文化の話, 歴史, 英語の話

 

今日は「愛」がお題である。このことばは厄介で曲者だ。いや男女の仲も厄介で曲者だが、ことば自体が問題含みなのである。日本語としても、キリスト教の概念としても、仏教の概念としても。

ギリシャ語の愛は多様

まずキリスト教の方から行こう。聖書が、ギリシャ語のアガペー(agape)すなわち「無償の愛」と呼ばれる高次元の愛を説いていることをもって、キリスト教徒は、それをキリスト教と他の宗教とを画す一大思想進化だと捉えて自慢に思っている節がある。

必ずしもそうではないのだが、まあいまは放っておこう。現代聖書の原典はご承知のようにギリシャ語聖書だ。以下の記事にあるように、”love” に相当することばがギリシャ語には少なくても6種類あるそうだ。ところが、いかにも合理的な英語国民らしく “love” ひとつで済ましたせいで、次のような事態になっているという。

出典“The Ancient Greeks’ 6 Words for Love (And Why Knowing Them Can Change Your Life)”

They(Greeks) would have been shocked by our crudeness in using a single word both to whisper “l love you” over a candlelit meal and to casually sign an email “lots of love.
(中略)How can they inspire us to move beyond our current addiction to romantic love, which has 94 percent of young people hoping—but often failing—to find a unique soul mate who can satisfy all their emotional needs?”

「キャンドル越しのテーブルでカップルがささやく愛から、メールの締めの「元気でね」程度の愛まで、いかにもお手軽に “love” を乱用する様子を見たら、繊細に愛を使い分けていたギリシャ人はさぞかし面食らうだろう。94%の若者が愛と言えば男女の恋愛しか想像できず、狂おしくソウルメート(生涯の伴侶)を求めている現代人に、足りない愛の概念は何なのか?」


そういって記事の筆者が提示する愛は、Eros(sexual passion)、Philia(deep friendship)、Ludus(playful love) 、Agape(love for everyone)、Pragma(longstanding love)、Philautia(love of the self )の6つの愛である。

このうち聖書に出てくる愛は Agape と Philia の2つだ。対比的にいえば、アガペーこそ神の領域の愛であり、フィリアは地上の愛に過ぎない。フィリアからアガペーへと階梯を上がっていくのがキリスト者としての精進なのである。

イエスの愛敵テーゼ

このアガペーはイエスにおいて「汝の敵を愛せよ」(「マタイによる福音書」5章44節)というかたちで先鋭化される。この激越ともいえる戒めは、モーゼの十戒へのアンチテーゼである山上の垂訓に出てくるから重みがある。世紀の問題発言(controversial)として、その後2000年間キリスト教徒を悩まし続けてきた。

ちなみに「マタイによる福音書」は英語で “Gospel of Matthew” だが、福音ということば、元の意味は「(イエスからの)よい知らせ」くらいの意味である。gospel←古英語god spell(good message/story)←ラテン語bona adnuntiatio←ギリシャ語evangelion(reward for bringing good news)。エヴァンゲリン=ゴスペルなのだ!

イエスは本当にこう言ったのだろうか?

聖書は複雑怪奇な書物だ。編纂過程で各教団の思惑が入り乱れて、何が本当かよくわからない。パウロやマタイやルカなど有力者がイエスのことばに独自の解釈や加筆、修正などを加えたと考える方が正解に近そうだ。

以下、文献学的な解説を読んでみよう。

出典「宗教と教団:マタイ教団の歴史的現実と、「愛敵」をどう受け取る?」

本来、これらの実行困難な教えは、元々は律法学者やファリサイ派を批判したイエスの逆説的言葉であった。それをマタイ教団が置かれた社会情勢の中で、敵対するファリサイ派の掟に対抗して、より厳しくラジカルな実践綱領とした。しかし、これがある事でキリスト教は新律法主義となり、ファリサイ派と同様に多くの偽善者を出す弊害となった。

旧約の「隣人」は、同じ神への信仰をもつイスラエル同胞限定であり、神との契約共同体に入っている仲間限定である。しかし、律法を守れない徴税人や異邦人であるサマリヤ人やエドム人など非イスラエル人は、隣人ではない。旧約では、隣人(同胞)を愛すれば愛するほど、反比例して敵(異邦人)を憎む事になる。

現代でも、米国が正義で、米国に反対する者は敵と見做される。米国南部バイブルベルト地帯で愛敵を言おうものなら、非国民として教会から排除されるだろう。異常に神を愛すれば愛するほど、異端を憎悪して悪魔として虐殺し、異様に昂揚した宗教心は魔女狩りを引き起こす。神を愛し・正義を貫き・隣人を愛する事の裏返しが、敵を憎み聖絶させる事に繋がる(ヨシュア記の内容)。
一方イエスは、天の父が無条件・無差別で全てに愛を注がれているのだから、善人はおろか悪人・不正な人々をも愛せよと言う。迫害する敵たちの幸せさえ祈れとまで言う。驚くべき発言と言う以外にない。罪人、徴税人、異教徒を愛するのは、当時のユダヤ教では大罪を意味する。

たまに聖書を読むたび感じるのは、律法支配の強固さ、そして強固な同胞意識とその裏返しの外部敵視の苛烈さである。そんな環境における愛敵発言は “精神革命家” イエスの面目躍如たることばだろう。

イエスは、神の律法といいつつ人間同士の無用な相克を超えられない当時の律法権威者たちを見て、もっと大きな神の愛に信頼せよと挑発したのだろう。それが実行可能かどうかは措くとして、イエスの方が役者が一枚も二枚も上である。こうした機微を持つ愛敵の愛を、”Agape” と的確にギリシャ語訳した聖書編纂者も偉かったのではないか。

偉かったお陰で後世の人間は大いに悩まされたわけだが、アガペーの概念がプラスに働いた場面もあったに違いない。しかし、そのようなアガペーと律法をめぐる歴史的な緊張感や革命性は、ギリシャ語からの重訳である英語版聖書や日本語訳聖書からは脱落していってしまう。致し方のないこととはいえ、これも FOR(Frame of Reference)の違いを訳し分ける難しさをよく示していると思う。

愛敵部分のイエス発言を日英対訳で示そう。

  • But I tell you, love your enemies and pray for those who persecute you.
  • されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。<文語訳>
  • しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。<口語訳>

愛という訳語の生硬さ

「敵を愛す」という文句を現代人はそれほど違和感なく読める。しかし「愛」が臆面もなく前面に押し出されたのは、日本の表現史上、文語訳聖書が初めてだったのである。

愛ということば自体は既に仏教のなかにあった。でも、執着や妄執といった悪い意味なのである。「愛別離苦」というように人間の解脱を邪魔する煩悩のひとつの扱いである。

愛することは執着することであり、実際それは今も少なからず犯罪を引き起こすきっかけとなっている。妄執は相手に執着しているように見えて、実は相手以上に自分に執着しているのである。

中国経由の誤訳輸入

歴史は皮肉なものだ。幕末期、清国で作られた中国訳聖書において “love” が(おそらく苦肉の策で)”愛” と訳され、そのまま日本語訳聖書へ移植されてしまった。清国で仏教はマイナー宗教であり、アガペーに類する概念は見い出せなかったのだろう。この場合、「愛」よりは「仁」の方が近かったと思うのだが、そうならなかったのである。

愛という訳語への違和感をずっと抱いてきた人が現代東北の気仙沼地方にいた。

山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)というカトリック信徒のお医者さんだ。山浦氏は独学でギリシャ語を勉強し、独自のケセン語訳聖書を編纂してしまった。

気仙沼地方というのは、ご存知の方は少ないかもしれないが特異なキリシタン文化をもつ場所だ。言語もまた独特なのだ。こだわる人が出るのは不思議ではない。山浦氏の出版した「ケセン語訳」新約聖書では、アガペーはどのように訳されているか?以下の記事から引用しよう。

出典「読書日記「イエスの言葉 ケセン語訳」(山浦玄嗣著、文藝春秋新書) 」

敵(かだギ)だってもどごまでも大事(でァじ)にし続(つづ)げろ。
(ケセン語訳/マタイ五・四四)
「ケセン語には愛ということばはない。・・・そういうことばは使わない」。山浦医師は、東北人らしく率直に切り出す。「愛している」なんて、こそばゆくて、むしずが走るようなことばだ。『神を愛する』なんて失礼な言葉はない。『お慕申し上げる』ならわかるが、『愛する』はないでしょう。ペットではあるまいし!」
「ギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳したために、聖書の言葉が日本人の心に届いていない」。420年ほど前のキリシタンは「大切にする」と訳し、「愛する」は妄執のことばとして嫌ったという。「『お前の敵を愛せ』は誤訳だ。イエスは『敵(かたギ)だっても大事(でアじ)にしろ。嫌なやつを大事にすることこそ人間として尊敬に値する』と言っているのだ」

“愛” が狭すぎる

しかしトコシエが愛をお題に選んだポイントはそこではない。むしろ420年前のキリシタンの伝統感覚に感心したのある。彼らはキリスト教へ改宗したわけだが、その教養は日本化された仏教文化に育まれていた。だから “愛” ということばはネガティブに響いたはずだ。結果、彼らは “愛” を避け “大事(大切)” を選んだ。これこそが伝統の持つ力だと思うのである。

秀吉、家康と続くキリシタン禁制でキリスト教の進出は制限されたが、明治の開国後、日本人はキリスト教への “武装解除” を行う。一転、西洋のものは何でも浴びるように受け入れ、西洋概念を呑み込み、日本語大改造に着手した。その成果に関しては賞賛すべき点も多いのだが、こと宗教に関してはいい加減過ぎたように思う。

江戸国学の流れで神道を疑似一神教化すると、続いて「廃仏毀釈」で仏教排除を試み、神仏習合が築いていたエコロジーを破壊してしまった。前近代的な宗教を脱ぎ捨て新生の国家神道を権威化する。

もはや “大事(大切)” の言語感覚は通用しない。聖書を文語訳から口語訳へ移すとき、”愛” は手つかずとなった。アガペーに比して狭すぎる “愛” の概念を、少しでもギリシャ的な広がりへ展開させようという意識は存在しなかったのだろう。

それにしても、このような宗教伝統の改竄を経ても、日本人のDNAには宗教的としかいえないような素晴らしい精神性が息づいている。奇跡のような話なのだが、少なくても420年前のキリシタン改宗者の仏教的素養を失ったことは確かだ。だから寺社を冠婚葬祭の専門業者(あるいは密室の教義集団)に押し込めたままで平気なのである。もったいないといえばもったいない話である。

“愛” はマーケットをつくった

葬式仏教しか知らない現代の日本人は誰しも一度は “愛” に悩まされる。その際イメージされている “愛” はギリシャ語のエロス(性愛)かフィリス(友愛)かフィラウティア(自己愛)であって、アガペー(他愛)ではない。ましてや仏教の妄執(自己への執着)でもない。

きっとそのせいだろう。”愛” は、ダイエットサプリや美容整形よりも巨大なお悩み解消系ビジネスとなった。もし “愛” がなければ、現代のマンガ、アニメ、小説、音楽、映画の大半は成立しない。”愛” という誤訳が一大マーケットを生んだのである。これほど “生産的な” 誤訳は滅多に存在しないだろう。

愛の間口を広げる

とはいえ、個人的に「神ってる」、「神対応」、「〇〇〇が神!」などの表現が嫌いではない。ここには神道の神とキリスト教の神が絶妙の配合でミックスされていて、”愛” を感じる。

ただそれとは別に、学校でアガペーの概念もきちんと教えないといけない。アガペーをアガペーとして教えず、これが “love” の元となって、幕末に聖書を介して “愛” として日本へ入りましたと教えるべきである。アメリカ人でさえ男女の恋愛オンリーになっているご時勢だ。

日本の若者を100%ロマンチックやエロスの概念に閉じ込めておくのは気の毒である。”愛” がないと世間では人でなし扱いだ。無用なプレッシャーである。

それと同時に、その同じ愛を妄執と捉える考え方が仏教にはある、ということも教えるべきだ。そちらの方が伝統的な概念だということを押さえておく必要がある。

このセットでようやく愛の間口は十分に広がる。若者を無用なプレッシャーから解放する。彼らを(大人も基本は同じだが)苦しめるのは結局、自我の扱いだ。人生、ほとんどこれの取り扱いに左右されると云っていいくらいだ。

“愛” を恋愛やセックスの枠に閉じ込めると自我は肥大化し暴走する。”愛” の指示先をアガペーから妄執まで広げておくことで、自我のプレッシャーを緩めることができるのに、と思う。

ブックガイド

明治期の翻訳事情について簡明に記述されているロングセラー。「恋愛」について言及がある。

ギリシャ人もローマ人も「恋愛」など知らなかった。それはキリスト教的な「病気」であることを指摘。当たり前になっていることを起源に遡って考えるとすっきりする。トコシエが余計な精神的負荷を背負いこまないようになったのは学生の頃読んだこの本のおかげかもしれない。