【文化の重層性07】揺れ動くヴァチカンとフランシスコ法王インタビュー

2018-05-24宗教, 文明文化の話, 歴史, 英語の話

ヴァチカンは教皇庁(Roman Curia、Holy Seeとも)を中心とする独立国だ。教皇は全世界のカトリック教会の総司祭であるとともにヴァチカン市国元首でもある。この現代では特殊な祭政一致の体制が多くの問題を生んできた。

Roman CuriaとHoly See
Roman Cruia(Curia Romana)はヴァチカン市国(Vatican City)の元首(head of state)であり、カトリック最高司祭(supreme pontiff、Bishop of Rome)でもあるローマ教皇を補佐する官僚機構のこと。教会自体も含む。Holy Seeはほぼ同義だが、教皇の聖座または教会単体を意識した表現(seeはラテン語で “seat” を意味するsedesが語源で、ラテン語ではSancta Sedesという。慣用表現では、このどちらもヴァチカンという。ただ正確には、ヴァチカンといえば行政機構を含むヴァチカン市国全体を指す。

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第2ヴァチカン公会議と解放の神学

半世紀前の第2ヴァチカン公会議(Second Vatican Council、Vatican II)では、以下にもあるようにカトリック教会は自らの「近代化」とともに、他宗教(1000年以上前に分裂した東方正教会を含む)との対話推進を採択し、大変革へ舵を切ったといわれる。

第一バチカン公会議が近代的諸思想との対決の姿勢を強く打ち出したのと対照的に、「時代への適応」(アジョルナメント)を課題としたところに特質がある。(中略)現代世界の、戦争と平和、富と貧困などの問題を教会も自らの問題として背負い、また、他宗教、他宗派、他思想への開かれた教会であることを目ざした。

第2公会議の決定に呼応するかのように噴出したのが、ラテンアメリカを中心とする「解放の神学」(Liberation Theology)運動だ。当初は現場司祭たちの社会正義を求める声が中心だったが、次第に教会以外の左派運動家が主導権を握ると、以下の解説にあるようにCIAの介入を招いて失速した。

元カトリック司教マシュー・フォックスによれば、今日の惨状の原因は、がちがちの教条主義者ベネディクト16世が、ラッツインガー枢機卿と呼ばれていた時代に異端審問を復活させ、教会内部の異論を摘発し、排除したことにあります。意見の対立を認めず、反対派をことごとく排除したことが、組織から自浄能力を奪ってしまったのだと。フォックス自身が、1980年代に「解放の神学」を信奉したため、ラッツィンガー枢機卿によってカトリック教会を追われ、現在は米国聖公会に属しています。

こうしたことの根底には、1962年から65年にかけて開催された第2バチカン公会議の教会刷新の試みに対する反動、近代化を力ずくでねじ伏せてきた全体主義的な傾向があります。第2バチカン公会議はカトリック教会が近代への脱皮を図るもので、各国語によるミサの執行や地域文化に添った典礼の改革など現代社会への適応が図られました。こうした刷新運動の一環が、1970年代から中南米を席巻した軍事独裁政権の暴虐に反対して貧しい民衆の側に立った「解放の神学」でした。しかし、保守派は巻き返しをはかり、教皇ヨハネパウロ2世の時代から反対派の排斥が始まりました。

フォックスはここで教会の分裂をたくらんだCIAの暗躍に言及しています。解放の神学を一番警戒したのは、中南米の独裁政権を裏で操っていた米国でした。教会が民衆側についたのでは親米政権にとって大打撃です。そこでCIAは教会の分断を図ります。ポーランド出身の異色の教皇ヨハネパウロ2世にたっぷり資金を回して、ポーランドの共産主義政権を揺るがした「連帯」労組の運動への支援を助けました。その見返りに、中南米での解放の神学の弾圧を教皇に黙認させたのです。

エルサルバドルのオスカル・ロメロ大司教をはじめ大勢のカトリック聖職者たちが独裁政権のテロによって粛清されましたが、バチカンは彼らを見殺しにしました。バチカン内部でも反対派は一掃され、異論を弾圧したため、ファシストと呼ぶにふさわしい性と暴力を支配の道具にした全体主義の傾向が強まり、現世とのかかわりを完全に見失ったとフォックスは指摘します。「私たちの知るカトリック教会やバチカンという組織はもう存在しません。時代に取り残され、カトリック教会は悪の巣窟と化してしまった。1600年にわたって続いてきた組織の瓦解を私たちは目の当たりにしているのです」。

結局、元の木阿弥となってカトリック教会は「反近代化」路線へ傾斜していく。実は第二公会議では、表向き開かれた教会を謳いつつ、裏では教皇に絶対的な権力を与える決定がなされていた。異端審問まで復活させて改革派を潰した前法王の、教会は暴走(スキャンダル噴出)し、とうとうリベラルな教皇を選ばざるを得ない窮地に追い込まれたのである。

中国市場

その動きと連動するように、中国との国交関係樹立の動きも出ている。欧米での退潮著しいヴァチカンは、なんとか失地を回復したい。そのために喉から手が出るほどほしいのが中国という巨大 “信徒市場” なのだ。

ヴァチカンはヨーロッパで唯一台湾と国交関係をもっている。「一つの中国政策」(One China policy)にこだわる中共にはこれが目の上のタンコブだ。ヴァチカンを味方に引き入れ、台湾から離反させたいのである。

ヴァチカン・中国間の歴史的な和解協議

両国は「歴史的な和解」に向けて協議中で、今年3月にも正式調印するのではと一時は観測されていたのだが、なぜか協議再開は宙に浮いたまま現在に至っている。Wall Street Journalの最新記事の一部を引用しよう。

Abide in Darkness: China’s War on Religion Stalls Vatican Deal

A landmark agreement aimed at healing a nearly 70-year rift between Beijing and the Vatican is in limbo as the Chinese government tightens control over religion.

The Vatican had hoped to clear the biggest hurdle to the deal—intended to bring together China’s state-backed and unauthorized Catholic communities—at a meeting this month, people familiar with the talks said, but it has yet to be scheduled.

At that meeting, the people said, Vatican officials had planned to accede to China’s main precondition for a deal: the formal recognition of seven excommunicated Chinese bishops appointed by the government without the approval of the pope. That would clear the way for Beijing to give Pope Francis the right to veto its future bishop candidates.

The deal’s prospects have been complicated by China’s crackdown on religious institutions and activities, which began with the implementation of strict new regulations in February. President Xi Jinping and the Chinese Communist Party are promoting Marxism and “socialist” values as a state-approved system of belief.

in limbo
「宙ぶらりんの状態にある」「どっちつかずである」の意味の便利な表現。

抄訳:ヴァチカンは、中国政府公認のカトリック教会と非公認の教会を一体化して、ローマ法王がすべての司教を任命する合意を取りつけたい。そのため、中国政府が独自に任命し、後にローマ教会が破門した7名の司教の破門を解くという中国側の前提条件を受け入れる用意があった。そこへ習近平のマルクス主義、社会主義路線の厳守という方針発表が、冷や水を浴びせた恰好だ。


交渉のネックになったのは、このタイミングで習近平が打ち出した「宗教の中国化」宣言だった。もともと共産主義自体、宗教を認めないという問題に加え、中国という国には宗教にトラウマがある。たとえば、清の時代、キリスト教徒の反乱(太平天国の乱)で政府が疲弊し、後に日本との戦争に敗れ、滅亡に至った苦い経験がある。

現代でも、チベットの仏教徒をはじめウイグルのイスラム教徒など宗教への警戒(弾圧)を怠らない。少しでも気を抜けば「祖国統一」は足元から崩れ去ってしまう。和解協議の現状については、以下の記事に詳しい。

フランシスコ法王ロングインタビュー

以上簡単に見たように、フランス革命以降の近代諸思想は無神論への契機を内に孕んでいる。そのためヴァチカン内部はつねに保守派と改革派の間で揺れ動いてきた。以下のロングインタビューは、前回も紹介した「ラ・レプッブリカ」紙に掲載されたものだ。

日本で、たとえば天皇陛下に対して、このような突っ込んだ内容のインタビューが行われることは考えられないし、ましてやそれが一般公開される可能性はゼロに近い。それを許すヴァチカンは相当世間に配慮しているといわざるを得ない。

フランシスコ法王のスタンスと行動力

質疑応答に先立って、フランシスコ法王は以下の「基調講演」のような発言をする。

“The most serious of the evils that afflict the world these days are youth unemployment and the loneliness of the old. The old need care and companionship; the young need work and hope but have neither one nor the other, and the problem is they don’t even look for them any more. They have been crushed by the present. (中略)This, to me, is the most urgent problem that the Church is facing.”

「現代世界をむしばんでいる最も深刻な悪は、若者の失業と老人の孤独です。老人にはケアと交際が必要で、若者には仕事と希望が必要ですが、彼らはそのどちらにも恵まれず、それらを諦めている人が増えています。彼らはずっと時代に押しつぶされきたのです。(中略)わたくし個人にとって、これこそローマ教会が最も緊急に対応すべき課題なのです。」


フランシスコ法王は、このように「貧しき者のための教会」というスタンスで一貫しているのだが、その反面、「解放の神学」騒乱のなか、当局に拘束され殺された司祭を見殺しにしたのではないかという疑惑がくすぶっている。

そうした評判を払しょくするためか、法王は「アジョルナメント」にコミットする姿勢を見せ、たとえば、就任早々、オバマ政権とキューバの国交回復交渉のきっかけを作るなど、積極的な行動力を見せている。

アジョルナメント(aggiornamento)
イタリア語で英語のupdateに相当。1960年代に開かれた第二ヴァチカン公会議が打ち出した「教会の現代化、新時代への適応」を指す。具体的には、戦争、貧困、所得格差、環境問題など解決困難な諸問題を自らの課題として背負う姿勢をいう。教会運営の刷新、エキュメニズム(東方教会との和解を含む、諸宗教・諸派との対話)とともにカトリック大改革の柱となるアジェンダ。

インタビュー内容

以下、インタビューは質疑応答形式で進む。

インタビュワー:”Your Holiness, it is largely a political and economic problem for states, governments, political parties, trade unions.”

「聖下、それは国家、政府、政党、労働組合の対処すべき政治的、経済的問題ではありませんか?」

法王:”Yes, you are right, but it also concerns the Church, in fact, particularly the Church because this situation does not hurt only bodies but also souls. The Church must feel responsible for both souls and bodies.”(中略)

「おっしゃる通りですが、教会にも無関係とはいわれません。肉体はおろか魂を傷つける状況が厳然と存在するのですから。教会は魂と肉体と両方の問題にも責任を感じるべきです。」(中略)

アガペーについて

法王:”Do you know what agape is?”

「アガペーについてはご存知ですね?」

インタビュワー:”Yes, I know.”

「はい、知っています。」

法王:”It is love of others, as our Lord preached. It is not proselytizing, it is love. Love for one’s neighbor, that leavening that serves the common good.”

「アガペーは主が説かれているように隣人への愛です。大事なのは誰かを信仰の世界へ導き入れることではなく愛です。他人を思いやるこころは、公益という生地を膨らませるパン種のようなものです。」

インタビュワー:”Love your neighbor as yourself.”

「汝自身のごとく隣人を愛せ。」

隣人愛
旧約聖書レビ記19章18節にこうある、「
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」。
出典のレビ記はユダヤ教の根幹を成すトーラー(モーセ五書、torah)のひとつ。レビ記の定めている細則は、ユダヤ教の律法の核となった。トーラーは伝統的に以下の順番で配列されている。
創世記(Genesis)→出エジプト記(Exodus)→レビ記(Leviticus)→民数記(Numbers)→申命記(Deuteronomy)
※注意したいのはレビ記の「隣人」はイスラエルの同胞のみを指すこと。ヘブライ人(ユダヤ人)はエジプトでの差別、バビロンへの捕囚などの辛く苦しい民族体験からナショナリズムの強い民族だった。「隣人」が(少なくても建前上は)身分や性別に関係なく全人類へ拡大されるのはペテロやパウロの宣教時代以降である。

法王:”Exactly so.”

「そう、その通りです。」

インタビュワー:”Jesus in his preaching said that agape, love for others, is the only way to love God. Correct me if I’m wrong.”

「もし間違っていたら正していただきたいのですが、イエスは、ただ隣人を愛するアガペーだけが神を愛する道だと教えられていますね。」

法王:”You’re not wrong. The Son of God became incarnate in order to instill the feeling of brotherhood in the souls of men. All are brothers and all children of God. Abba, as he called the Father. I will show you the way, he said. Follow me and you will find the Father and you will all be his children and he will take delight in you. Agape, the love of each one of us for the other, from the closest to the furthest, is in fact the only way that Jesus has given us to find the way of salvation and of the Beatitudes.”(中略)

「間違っていませんよ。神の御子は、人類の魂に同胞愛を浸透させるためにこの世にお生まれになりました。人はすべて神の兄弟、神の子なのです。主の言葉を借りれば、神はアッバ(父)です。わたしが道を示そう。わたしに従えば、あなたがたは父を見つけ、神の子となり、神はそれをお喜びになるだろう、と。アガペー、遠きも近きもお互いが慈しみあう心―、わたしたちが救われる道、八福の教えに至る道はそこにしかありません。」(中略)

Beatitudes
マタイ福音書第5章3~12説にある教えの総称。カトリック教会では八福の教え、または真福八端(しんぷくはったん)。正教会では真福九端(しんぷくきゅうたん)。内容は同じだが章句の数え方が違う。
このBeatitudesに始まりモーゼ十戒の解釈に至るイエスの説教全体を、Sermon on the Mount(山上の垂訓)と呼び、教義上、重要な位置を占める。具体的な八福の教えは、本記事末尾に掲載する。

信仰に入るきっかけ

インタビュワー:”You heard your calling at a young age?”

「お若い頃に神のお召しを受けたのですか?」

calling/call
神の呼びかけを受け取ること、天命(召命)を自覚すること。呼びかけに対して応えるのが人間の務めとなる。
ゴスペルソングの基本様式であるcall and responseは、神の呼びかけに対する人間の応答という関係性を意識して様式化されたものではないかと思う。

法王:”No, not very young. My family wanted me to have a different profession, to work, earn some money. I went to university. I also had a teacher for whom I had a lot of respect and developed a friendship and who was a fervent communist. She often read Communist Party texts to me and gave them to me to read. So I also got to know that very materialistic conception.(中略)The woman I’m talking about was later arrested, tortured and killed by the dictatorship then ruling in Argentina.”

「いいえ、そんなに若い頃ではありません。両親はわたしに他の仕事に就いてお金を稼いで欲しかったようなので、大学に行きました。ある尊敬する教授と親しくなったのですが、彼女は熱心なコミュニストでした。よく共産党関係の文書を読んでいて、わたしにも読むことを薦めました。その結果、コミュニズムの唯物史観を知りました。(中略)この教授は当時アルゼンチンを支配していた独裁政府に捕えられ、拷問の末に殺されました。」

インタビュワー:”Were you seduced by Communism?”

「コミュニズムに誘惑を感じましたか?」

法王:”Her materialism had no hold over me. But learning about it through a courageous and honest person was helpful. I realized a few things, an aspect of the social, which I then found in the social doctrine of the Church.”

「彼女の物質主義の影響は受けませんでした。しかし勇敢で誠実な人物からそういう考えを学んだことは役立っています。社会と宗教の関係という点でいえば、ローマ教会にもそうした社会主義的な教義が入っていることを認識していました。」

インタビュワー:”Liberation theology, which Pope John Paul II excommunicated, was widespread in Latin America.”

「ヨハネ・パウロ2世が解放の神学に破門を宣言されたとき、すでにラテンアメリカでは広く浸透した考えでしたね。」

法王:”Yes, many of its members were Argentines.”(中略)

「ええ、多くの会員はアルゼンチン人でした。」

アウグスティヌスと神の恩寵について

この後、インタビュワーは「あなたが最も近しく感じる教皇は誰ですか?」という答えにくい問いを発する。フランシスコ法王は「自分の魂にいちばん近いと感じる」と前置きした上で、古代のアウグスティヌスと中世の聖フランチェスコの名を挙げる。意外なことに、法王自身の出身母体であるイエズス会の設立者イグナチオ・デ・ロヨラの名は挙がらない。

法王:”Indeed, he (Augustine) sees the Church and the faith in very different ways than Paul, perhaps four centuries passed between one and the other. “

「アウグスティヌスの教会観、信仰観はパウロとだいぶ違うものでした。アウグスティヌスはパウロの4世紀後の人ですから。」

インタビュワー:”What is the difference, Your Holiness?”

「どのように違うのでしょう、聖下?」

法王:”For me it lies in two substantial aspects. Augustine feels powerless in the face of the immensity of God and the tasks that a Christian and a bishop has to fulfill. In fact he was by no means powerless, but he felt that his soul was always less than he wanted and needed it to be. And then the grace dispensed by the Lord as a basic element of faith. Of life. Of the meaning of life. Someone who is not touched by grace may be a person without blemish and without fear, as they say, but he will never be like a person who has touched grace. This is Augustine’s insight.”

「個人的には2つの本質的な点で違うと思っています。アウグスティヌスは神の偉大さを前に自身の無力を感じるだけでなく、キリスト者として、聖職者として果たすべき仕事の大きさを前でも己の無力を痛感していました。実際は無力ではありませんでしたが、それでも、彼はいつも、自分の魂が、彼がそうなりたい、そうなるべきだと感じる境地には達していないと感じていました。そんなとき、彼の信仰を、人生を、人生の意味を最も深いところで支える恩寵が、主から分け与えられたのです。恩寵に触れられたことのない人は、道徳的欠点のない人や恐れのない人にはなれるかもしれない。だが恩寵に触れられた人のようにはなれない―、これがアウグスティヌスの得た洞察です。」

アウグスティヌス(Augustinus)
アウグスティヌスは、キリスト教会(「神の国」)の、ローマ帝国(「地の国」)に対する優越性を理論づけたキリスト教最大の教父(Church Father)。
アウグスティヌスはキリスト者の典型と目される人物でもある。その自伝『告白』によれば、若かりし頃より、異教(マニ教)と強い肉欲(数々の淫行の末、身分違いの女性と結ばれ子どもをもうけ、この女性と別れた後も別の女性と婚約)の間をさまよい、つねに魂の渇きを抱えていた。彼が懊悩から抜け出せたのはひとえに神の恩寵のおかげであるという。
折しも西ゴート人(ゲルマン系)がローマを侵略。彼は主著『神の国』(”The City of God Against the Pagans”)において、全力で異端・異教(グノーシス派、ペラギウス主義など)に反駁し、キリスト教の優勢性を説いた。

(出典:世界の歴史まっぷ) 
アウグスティヌスとペラギウス
『神の国』でアウグスティヌスが反駁したペラギウス。両者の考え方の違いは、後の宗教改革を予感させる重要な対立ではなかったかと思う。
ペラギウスはケルト系の出自の、禁欲苦行・雄弁の人だったという。wikipediaによれば、彼はこう考えた。「神は人間を善なるものとして創造したのであり、人間の原罪は神が善のものとして創りたもうた人間の本質を汚すものではない」「故に神からの聖寵を必要とはせず、自分の自由意志によって功徳を積むことで救霊に至ることが可能である」「人間個人は自ら救霊に神の救いを必要としないので、イエズスの受難は人間全般の罪をあがなったものではない」。
これに対して、これもwikipediaによれば、「ペラギウス主義が『功績による救済』であるのに対し、アウグスティヌスは『恩恵による救済』を教えた。アウグスティヌスは人間が全的に堕落し、救われるためには恩寵によらなければならないが、神はすべての人を救われるのではなく、救われるべき人々を神があらかじめ選ばれたという予定説を展開した。西方教会における論争で、アウグスティヌスの立場が正統であり、ペラギウスは異端であると認められた」。
性善説と性悪説の対立である。日本人の目からはペラギウスの考え方の方が自然に感じられるが、古代の公会議は性悪説を採用したのである。
また、アウグスティヌスの予定説は後のカルヴァンのそれを先取りしている。西洋社会の差別性・優生思想の萌芽とも見なせる。カルヴァニズムが資本主義形成に与えた巨大な影響を考えると、世界は「肉欲」の超克を謳った人の思想に始まり、ふたたび「肉欲」是認の世界へ戻ったともいえ、考えさせられる。

インタビュワー:”Do you feel touched by grace?”

「ご自身、恩寵に触れられたとお感じになったことはありますか?」

法王:”No one can know that. Grace is not part of consciousness, it is the amount of light in our souls, not knowledge nor reason. Even you, without knowing it, could be touched by grace.”

「それは誰にもわかりません。恩寵は意識には属さないのです。恩寵はわたしたちの魂の光量であって、知識でも理性でもありません。あなただって、それと知らずに恩寵に触れられる可能性があります。」

grace
神の人間に対する慈愛を恩寵(恵み)と呼ぶが、「わざわざ、幸運にも、ありがたくも」神は恵みを与えてくださったというニュアンスがこめられている。類義語にcharity、mercy、連想語にfavorがある。
西洋では功成り名を遂げるとcharityで罪滅ぼしをする伝統が根強い。現代では財団、昔では教会への寄付。イタリアルネッサンスの興隆(ミケランジェロ、ラファエロ)はメディチ家の莫大な喜捨なしに考えられない。

インタビュワー:”Without faith? A non-believer?”

「信仰なしでも?無信仰者でも?」(※インタビュワーは無信仰者であることを公言している。)

法王:”Grace regards the soul.”

「恩寵は魂に関わるものです。」

Non-believerとAtheist
無信仰者と無神論者は違う。「日本人は無宗教」という言い方をするときは、non-believerが適切。atheistは神の存在を否定する意思(主張)を明確(自覚的)にもった人々を指す。

インタビュワー:”I do not believe in the soul.”

「わたしは魂を信じていませんが。」

法王:”You do not believe in it but you have one.”

「信じていなくても、お持ちです。」

インタビュワー:”Your Holiness, you said that you have no intention of trying to convert me and I do not think you would succeed.”

「さきほどわたしを入信させる意図はないと仰いましたよね。無駄だと思いますが。」

法王:”We cannot know that, but I don’t have any such intention.”

「無駄かどうかはわかりませんが、そのような意図はありません。」

聖フランチェスコについて

インタビュワー:”And St. Francis?”

「聖フランチェスコについてはいかがですか?」

法王:”He’s great because he is everything. He is a man who wants to do things, wants to build, he founded an order and its rules, he is an itinerant and a missionary, a poet and a prophet, he is mystical. He found evil in himself and rooted it out. He loved nature, animals, the blade of grass on the lawn and the birds flying in the sky. But above all he loved people, children, old people, women. He is the most shining example of that agape we talked about earlier.”

「彼はあらゆる方面で偉大な人でした。行動の人であり、建てる人であり、実際に修道会を創設し、会則を定めました。そして旅する宣教師でした。詩人であって預言者であり、神秘家でした。自分自身の内に悪魔を見つけ、それを根絶やしにしました。自然を愛し、動物を愛し、芝の葉や空の鳥を愛でました。とりわけ人が好きで、子どもや老人や女性を愛しました。彼こそアガペーの最も良い見本です。」

インタビュワー:”Your Holiness is right, the description is perfect.” (中略)

「聖下の仰る通りで、完璧な描写です。」(中略)

法王:”Francis wanted a mendicant order and an itinerant one. Missionaries who wanted to meet, listen, talk, help, to spread faith and love. Especially love. And he dreamed of a poor Church that would take care of others, receive material aid and use it to support others, with no concern for itself. 800 years have passed since then and times have changed, but the ideal of a missionary, poor Church is still more than valid. This is still the Church that Jesus and his disciples preached about.”(中略)

「フランチェスコは、中世の旅する宣教師のような托鉢修道会を志しました。見知らぬ人々に会い、彼らの話に耳を傾け、語り、助ける宣教師として、信仰と愛を、とくに愛を広めることを。彼には教会の経営はどうでもよかったのです。それより喜捨をもとに人々を助け、世話する機関、貧しき教会の成長を夢見ていました。以来800年が過ぎ、時代は移りましたが、宣教者の理想といえる貧しき教会の考えはいまも生きています。本来イエスと弟子たちが求めていたのはこういう教会だったはずです。」(中略)

フランシスコ法王の抱負

ここで質問者に「今日キリスト教徒は世界的に見れば少数派であり、キリスト教の内部でもカトリックはプロテスタントより劣勢にある。イタリアでも教会に通う信者がどんどん減っているが」という風に突っ込まれるが、フランチェスコ法王はこう切り返す。

法王:”We always have been but the issue today is not that. Personally I think that being a minority is actually a strength. We have to be a leavening of life and love and the leavening is infinitely smaller than the mass of fruits, flowers and trees that are born out of it. I believe I have already said that our goal is not to proselytize but to listen to needs, desires and disappointments, despair, hope. We must restore hope to young people, help the old, be open to the future, spread love. Be poor among the poor. We need to include the excluded and preach peace.

(中略)I have the humility and ambition to want to do something.”Vatican II, inspired by Pope Paul VI and John, decided to look to the future with a modern spirit and to be open to modern culture. The Council Fathers knew that being open to modern culture meant religious ecumenism and dialogue with non-believers. But afterwards very little was done in that direction.(中略)

「いままでだって多数派ではありませんでしたし、いまもそうです。でも個人的には少数派であることは強みだと考えています。教会は命と愛のパン種でなければなりません。種は未来永劫、それから出来る果物や花や木に比べれば小さき存在です。教会の目的は信徒を増やすことではなく、人々の欠乏、欲望、失望、絶望、希望の声に耳を傾けることです。若者の希望を復活させ、老人を助け、未来に開かれたこころを持ち、愛を広めまければなりません。貧しい人たちに混じって自ら貧しくなければなりません。外に出された人々を中に入れ、平和を説かねばなりません。

(中略)わたしは謙虚さと熱意をもって何事かを為し遂げたいのです。ヨハネ23世とパウロ6世が開かれた第2バチカン公会議では、教会が現代的精神をもって未来を志向し、現代文化に開かれた組織に生まれ変わることが決定されました。現代文化に開かれてあるとは、宗派を超えた教会の一致(エキュメニズム)を目指し、進んで無信仰者と対話することを意味します。公会議の神父たちには、このことがわかっていました。しかし現実はそのような方向にほとんど進みませんでした。」(中略)

エキュメニズム(ecumenisam)
キリスト教の東西分裂、その後の新旧分裂(プロテスタントのカトリックからの脱退)を解消しようとすること。分裂解消のための運動をエキュメニカル運動(ecumenical movement)という。現代では、キリスト教内部にとどまらず、広く他宗教、無信仰者などとの友好的対話や共同会議なども含む概念。

インタビュワー:”Jesus, as you pointed out, said: Thou shalt love thy neighbor as thyself. Do you think that this has happened?”

「先ほども仰られたように、イエスは『汝自身を愛する如く隣人を愛せよ』と説かれました。現実にそうなっていると思われますか?」

法王:”Unfortunately, no. Selfishness has increased and love towards others declined.”

「残念ながら、答えはノーです。自己への愛が増え、他者への愛は減っています。」

インタビュワー:”So this is the goal that we have in common: at least to equalize the intensity of these two kinds of love. Is your Church ready and equipped to carry out this task?”

「わたしたち共通の目標は、最低限、この二種類の愛のバランスを回復することですね。教会はそのための準備ができていますか?」

法王:”What do you think?”

「あなたはどう思われますか?」

インタビュワー:”I think love for temporal power is still very strong within the Vatican walls and in the institutional structure of the whole Church. I think that the institution dominates the poor, missionary Church that you would like.”

「ヴァチカンの壁の内側では、とくに教会組織全体の制度的構造によって、時(かりそめ)の権力への嗜好が強いように感じます。そうした組織が、聖下の望まれる宣教師たちの貧しき教会を圧倒しているように思います。」

法王:”In fact, that is the way it is, and in this area you cannot perform miracles. Let me remind you that even Francis in his time held long negotiations with the Roman hierarchy and the Pope to have the rules of his order recognized. Eventually he got the approval but with profound changes and compromises.”

「実際、ご指摘の通りです。この面では奇跡は起こせません。あの時代の聖フランチェスコでさえ、ローマの特権階級と教皇との長い折衝の末、彼の修道会の会則を認めてもらったのです。しかも、相当な変更と妥協を経て。」

インタビュワー:”Will you have to follow the same path?”

「あなたも同じ道を辿られるのでしょうか?」

法王:”I’m not Francis of Assisi and I do not have his strength and his holiness. But I am the Bishop of Rome and Pope of the Catholic world. The first thing I decided was to appoint a group of eight cardinals to be my advisers. Not courtiers but wise people who share my own feelings. This is the beginning of a Church with an organization that is not just top-down but also horizontal. When Cardinal Martini talked about focusing on the councils and synods he knew how long and difficult it would be to go in that direction. Gently, but firmly and tenaciously.”

「わたしはアッシジのフランチェスコではなく、彼のような力量も高潔さも持ち合わせません。それでもローマ主教であり、カトリック世界の教皇であることに変わりありません。手始めに枢機卿8名を諮問委員に任命しました。彼らはおべっか使いではなく、わたしとこころを同じうする賢明な人々です。トップダウンの部分より水平的な部分を強調した教会組織の始まりです。マルティーニ枢機卿が、とき、その方向に進む変革は穏便に、しかし着実かつ粘り強く進めるつもりです。」

インタビュワー:”And politics?”

「政治はどうですか?」

法王:”Why do you ask? I have already said that the Church will not deal with politics.”

「なぜそんなことをお訊きになるのです?さきほども教会は政治を扱わないと申し上げました。」

インタビュワー:”But just a few days ago you appealed to Catholics to engage civilly and politically.”

「数日前、カトリックの前で市民として政治的に関わってほしいと説教されていましたが。」

法王:”I was not addressing only Catholics but all men of good will. I say that politics is the most important of the civil activities and has its own field of action, which is not that of religion. Political institutions are secular by definition and operate in independent spheres. All my predecessors have said the same thing, for many years at least, albeit with different accents. I believe that Catholics involved in politics carry the values of their religion within them, but have the mature awareness and expertise to implement them. The Church will never go beyond its task of expressing and disseminating its values, at least as long as I’m here.”

「わたしはカトリックだけではなく、すべての善意の人々に呼びかけたのです。政治は市民の最重要な活動ですが、そこには政治独自の活動領域があり、宗教の活動とは交わりません。わたしの前任者たちも、トーンこそ違え、長年同じことを言ってきました。政治に参加する信者たちは、彼らの内面にある宗教的価値観に従い、それを政治に反映するだけの成熟した意識と能力があると信じています。教会は教会の価値観を表明し、世に広める以上のことをしません。少なくてもわたしの在位の間は。」

インタビュワー:”But that has not always being the case with the Church.”

「教会の歴史ではそうでないことも多々ありませんでしたか?」

法王:”It has almost never been the case. Often the Church as an institution has been dominated by temporalism and many members and senior Catholic leaders still feel this way.”

「そうでないことがほとんどといっていいかもしれません。組織としての教会はその時代の主潮に流されることがしばしばで、カトリックの多くの会員や長老たちは同じように感じていると思います。」

法王:”But now let me ask you a question: you, a secular non-believer in God, what do you believe in? (中略)”

無信仰者の弁

「ところで今度はわたしに質問させてください。神を信じない世俗者、無信仰者としてのあなたは何を信じていますか?」(中略)

インタビュワー:”I am grateful for this question. The answer is this: I believe in Being, that is in the tissue from which forms, bodies arise.”

「お尋ねいただき感謝します。答えは、存在を信じるということになります。かたちやからだの素になる組織のなかにあるものを信じています。」

法王:”And I believe in God, not in a Catholic God, there is no Catholic God, there is God and I believe in Jesus Christ, his incarnation. Jesus is my teacher and my pastor, but God, the Father, Abba, is the light and the Creator. This is my Being. Do you think we are very far apart?”

「わたしは神を信じていますが、カトリックの神を信じているのではありません。カトリックの神などという神はありません。神は神であり、わたしはイエスキリストを信じています。イエスはわたしの教師であり指導者ですが、神は、父なるアッバは、光であり創造主です。これがわたしという存在です。わたしたちはかけ離れた存在だと思いますか?」

インタビュワー:”We are distant in our thinking, but similar as human beings, unconsciously animated by our instincts that turn into impulses, feelings and will, thought and reason. In this we are alike.”

「考え方には大きな距離を感じますが、人間として似ていると思います。無意識に本能によって動かされている人間として。本能が脈拍や感情や意思や思想や理性にかたちを変えるのです。そういう意味でわたしたちは似ています。」

法王:”But can you define what you call Being?”

「あなたが存在と仰るのはどのようなものか教えていただけませんか?」

インタビュワー:”Being is a fabric of energy. Chaotic but indestructible energy and eternal chaos. Forms emerge from that energy when it reaches the point of exploding. (中略)”

「存在はエネルギーの仕組みです。混沌としているが破壊できないエネルギー、永遠のカオスです。エネルギーが爆発点に達すると、形質が生まれます。(中略)」

神の超越性と内在性

法王:”All right. (中略) In the letter I wrote to you, you will remember I said that our species will end but the light of God will not end and at that point it will invade all souls and it will all be in everyone.”

「わかりました。(中略)わたしが手紙に『人類はやがて絶滅するだろうが、神の光りに終わりはない。絶滅のとき、神はすべての魂に侵入し、あまねく、すべての人のなかに存在する』と書いたことを覚えていますか?」

インタビュワー:”Yes, I remember it well. You said, “All the light will be in all souls” which – if I may say so – gives more an image of immanence than of transcendence.”

「はい、よく覚えています。『すべての光がすべての魂のなかにある』と書かれていましたね。こう申してよければ、神の超越よりも神の内在がイメージされたのですが。」

法王:”Transcendence remains because that light, all in everything, transcends the universe and the species it inhabits at that stage.

But back to the present. We have made a step forward in our dialogue. We have observed that in society and the world in which we live selfishness has increased more than love for others, and that men of good will must work, each with his own strengths and expertise, to ensure that love for others increases until it is equal and possibly exceeds love for oneself.”

「超越性は残ります。なぜなら、神の光がすべての中に入った段階で、その光は宇宙を超越し、光が住まう生物種を超え出ていくからです。」

超越(transcendence)と内在(immanence)
キリスト教神学、西洋哲学における一大命題。「神とは何か?」「人間とは何か?」「存在とは何か?」を問えば必ず直面する問題だといえる(たとえば、トマス・アクィナス、キルケゴール、フッサール)。
一般に、神が現象界(世界、宇宙)の外部にそれと隔絶して存在することを超越性という(したがって人間は神の本質を知りえない)。逆に、神が現象界そのものである場合、あるいは超越神が現象界に働きかけ、存在または行為の原因となった場合、これを内在性という(人間自身が神性を有している、さもなければ、神の働きかけによって神の本質に近づく)。
キリスト教の論理では、人間は神の働きかけの結果を感知することしかできず、それを通じてしか神の実在を確信できない。この神の働きかけに全身全霊で応えることが信仰である。キリスト教でいう恩寵とはこのような神の働きかけを指す(それは神に人間への愛があるからである)。
三位一体論において位階(ペルソナ)と呼ばれる父、子、聖霊というものも、神が現象界に働きかけた結果をそのように呼びならわしたものに過ぎない。
ユダヤ教の超越神ヤハウェは人間から無限に隔てられた存在で、人間は一方的に神の律法に従うしかない。しかしイエスという神の働きかけの結果、同じユダヤ教からキリスト教とイスラム教という決定的に違う宗教が生まれる。
ユダヤ教の隔絶された神概念を純粋に受け継いだのがイスラム教。そこでは預言者ムハンマドを含めてあらゆる人間はただの人間。超越者が人間に内在するか否かなど問うこと自体が神への冒涜であり、強い禁忌の感情を引き起こす。
キリスト教においてはイエスの一点において超越(神)と内在(人間)が出会う。イエスを通じてのみ人間は「神は人間である」といえ、イエスを介してのみ「神は人間に内在する」と表現できる。このイエスによって与えられた “自由度” の大きさがキリスト教文明の政治的、物質的優位性を呼び込んだといえる。
東洋と西洋
超越と内在の問題は東洋思想と西洋思想の根本的違いでもある。
たとえば、仏教は現象の原因に神を設定しない。人生は苦だが、それはカルマによるものであり、今生においてどれだけ釈迦の法(八正道)に従って生きたかで来世のステータスが決まる。
とはいえ人間自身に改善の余地があり、誰でも悟りを得られるとする点で、仏教の本質は平等主義であり、性善説であり、内在論的である。
仏教と違い、もし内在論において神の存在を仮定するなら、人間や世界の堕落の度合いに応じて神は善性を失い穢れる。つまり神は全能でも完全でもないことになる。
一方、アブラハム宗教の人間は原罪を背負う罪深く、弱い存在だが、神は絶対善であり、人間がどう振る舞おうと少しもその善を失わない。人間が堕落するのはあくまで人間のせいだし、神が人間に働きかけるか働きかけないかは神の勝手である。
ここからは予定論などの差別思想が生じやすい。悪魔(サタン)、デーモン、異教徒、神に働きかけられながら応えない不信心者、そもそも神の働きかけの対象外にある者は、みな地獄に落ちる。神に選ばれた者だけが義を有する。

「現代の問題に戻りましょう。今日の話でひとつ前に進んだ点がありますね。わたしたちの暮らす社会でも世界でも、隣人愛より自己愛が増えていること、そして世の有志は各自の強みと専門を生かして、自己愛と釣り合うか、できれば凌駕する程度まで隣人愛を拡大する努力をすべきであることです。」

インタビュワー:Once again, politics comes into the picture.

「また政治という問題が視野に入りますが。」

法王:”Certainly. Personally I think so-called unrestrained liberalism only makes the strong stronger and the weak weaker and excludes the most excluded. We need great freedom, no discrimination, no demagoguery and a lot of love. We need rules of conduct and also, if necessary, direct intervention from the state to correct the more intolerable inequalities.”

「確かに。わたしの個人的意見になりますが、無制限のリベラリズムは強者をより強く、弱者をより弱く、排除された者をさらに外へ追いやるだけです。大いなる自由は必要です。しかし差別やデマは要りません。もっと大事なのは愛です。新しい行動ルールが必要です。必要なら、国家が介入して不寛容な不平等性を正すべきかもしれません。」

インタビュワー:Your Holiness, you are certainly a person of great faith, touched by grace, animated by the desire to revive a pastoral, missionary church that is renewed and not temporal. But from the way you talk and from what I understand, you are and will be a revolutionary pope. Half Jesuit, half a man of Francis, a combination that perhaps has never been seen before.(後略)

「聖下、あなたは偉大なる信仰の人です。神の恩寵に与かり、旅する宣教師たちの教会を蘇らせようとする情熱に突き動かされ、しかも時流におもねらない考えをお持ちだ。お話しぶりやわたしの理解するところに従えば、あなたは革命的な教皇になられると思います。イエズス会士であって、なおかつ魂は聖フランチェスコに共鳴する。これはかつてない組み合わせですね。」(後略)

<記事引用終わり>

 

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