【グローバル化】百田尚樹ら自称保守の迷走と日本人の歴史意識の稀薄さ

2018-12-10名言集, 時事ネタ, 歴史, 英語の話

今回から文体を「ですます」調に変え、少し趣向を変えたいと思います。

近年、いわゆる文化人枠にくくられる作家、評論家、コメンテーターの劣化が目立ちます。今日は一例として何かとお騒がせな百田尚樹氏を取り上げますが、彼はあくまで話の前振りに過ぎません。テーマは英語を学ぶ意味にも関わる、日本人の歴史意識の欠如についてです。

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百田氏ら自称保守言論人の軽さ

百田氏はネット界では有名な自称保守言論人のひとりで、『永遠の0』などの著作を通じて一般にも知られた作家です。その百田氏が書いた “歴史” 書『日本国紀』が売れているといいます。わたしは彼のファンでもアンチでもありません。たまたま、通りすがりに、迷走・劣化の悪路をひた進む保守論壇に物申すサイト「論壇.net」が目に触れました。

そこに連投されている『日本国紀』関連のエントリーを何気なく読んでいて、百田氏と版元幻冬舎の、物書きや出版社の顔に泥を塗るはしたない開き直りに呆れてしまいました。一例が以下の記事です。

幻冬舎の売らんかなの経営方針はいまに始まったことではないので驚きません。でも百田氏はペケです。wikiコピペの無断転載はプロとして問題ですし、男系の意味さえ知らない無教養ぶりで日本通史を描くという大胆さ。皇位継承の基本を知らずして保守を名乗る厚顔無恥!それが許されてしまう日本の出版文化の現状・・・

日本を愛しているといいながら、歴史記述に “私情” を挟むことを恥とも感じない(およそ伝統的日本男児にはあるまじき態度の)百田氏には以下の名言を捧げましょう。

Each one writes history according to his convenience. Jose Rizal

人は各自の都合に合わせて歴史を書く。ホセ・リサール(フィリピンの独立運動家)

歴史意識の希薄さが日本を停滞させている

しかし当記事の主要関心は百田氏の体たらくにはありません。彼のような自称保守言論人や、それをバックアップする営利企業の歴史修正主義が、日本社会の甘えの象徴に映るので取り上げたまでです。右も左もなく、日本人同士の馴れ合いなのです。そこに本当の意味での言論戦など存在していません。ブログ主には、すべてが商売用の保守、時代に迎合した保守に見えてしまいます・・・

なぜかを説明すると、こういうことです。

グローバル、グローバルといいつつ、日本人は一向にグローバルにものを考えようとしません。これは英語を学んで外で活躍したいという人たちにもぜひ耳を傾けていただきたい点です。

時代の流れで日本はそろそろ贖罪期間を過ぎて自己主張を始めてもよい環境になってきました。では、グローバルにものを考えるとはどういうことでしょうか?

百田氏もいうように歴史の理解にストーリーは必須

簡単にいえば、世界の歴史をひとつの筋道として理解した上で物事に考えを巡らすことを意味します。この点でブログ主は百田氏の主張に同意します。彼はヒストリーはストーリーだと喝破しています。確かに学校の世界史が絶望的につまらないのは、イベントと人名と年号が単に羅列され、その背景となる物語が存在しないことです。実証主義も基礎研究として大事でしょうが、ファクトはそれ自体に価値があるのではなく、物語を織りなすピースだから価値があるのです。それぞれの国はそれぞれの物語を持っていますから、グローバル化を唱えるなら、せめて世界史の大きな流れくらい知っておくべきでしょう。

歴史理解はグローバル化の必須条件

もし戦後日本は不当に貶められてきたというなら、狭い日本の言論空間で喧嘩するのではなく、世界に通用するプラットフォームで堂々と主張しなければダメです。そのプラットフォームとは歴史意識のことです。自国の歴史物語を知るように、外国の歴史物語も知っておく。それがグローバルな環境ではものをいいます。歴史には宗教や文化や政治すべてが織り込まれているからです。

歴史意識は絶望と希望を同時にもたらします。違いを乗り越える努力、同化する努力、異化する努力・・・すべては自国と他国の歴史の違いを認識することから生まれるものです。

たとえば、日本とフランスはまったく違う歴史を持ちます。ルノーと日産の提携といっても実質は、フランスによる日本技術の買収です。ヨーロッパ人は足りないものは戦争で買って掠奪する文化で育ってきたので当たり前です(もちろん、現場を知らない銀行上がりの経営者に会社を傾かせていた日産自身に最大の責めがあります。グローバリズム以前の企業統治の問題です)。

日産のゴーンさんが排除されたのも、それと時を同じくしてマクロン大統領が窮地に立っているのも、それぞれ異なる歴史を有する国家の枠組みを軽々と飛び越えるグローバリストの思惑が、そうでない人々によって異化されている過程なのでしょう。国家を「暴力装置」だと言いなすのは左翼の強いフランス革命以来の伝統からもしれませんが、人間はそうたやすく国家の枠組みを超えられません。それは他ならぬフランス革命後のフランスの歴史が証明しているではありませんか?

日本は恵まれているがゆえにグローバル化はむずかしい

日本は周囲を海に囲まれた島国で国民の同質性が高い国です。国単独で多様性もあり、十分やっていけるだけの文化資産を持っているので、グローバル化のニーズは実に低いです。だから日本人がそう簡単にグローバル化していくとは思いません。でも、好むと好まざるとにかかわらず、日本はグローバル化した世界に投げ込まれているのですから、とんでもない連中に負けないように、あるいは敵味方をうまく嗅ぎ分けながら、やっていくしかありません。

流暢に英語を操ることや、英語で意見を発表するのも結構ですが、その前に西洋人なら西洋人が拠って立つ土台、中国人が拠って立つ土台を勉強しましょう。同じ人間の歴史がつまらないはずがないのです。おそらく上から目線の西洋人は、よほどの奇特な人以外、日本史など知らないでしょう。だったら、西洋の歴史だけがすべてじゃないと、日本の歴史を題材に教えてやればいいのです。口を酸っぱくしていいますが、欧米人や中国人に媚びる必要はありません。彼らは多くの偏見と身勝手に満ちていますから、日本人が矯正してやるくらいの意気込みでちょうどいいのです。

日本人の歴史意識の欠落

日本の歴史学界は、これも百田氏の指摘通り歪んでいます。しかしそれは理由があってのことです。日本国民の欠点に根差した歪みなのです。歪みをもたらした犯人は戦後左翼でもマルクス史観でもありません。日本人自身の歴史意識の欠落です。

日本は天智天武の「日本」建国以来、表層意識の上では、他文明を鑑として国を運営することを延々と続けてきました。明治以前はシナが鑑であり、明治以降は英仏独がそれに代わり、戦後はそこにアメリカというファクターが加わりました。この外発性という性格は、反面、文化の洗練と高度化に結びつき、高い民度を実現しましたが、それがゆえに日本人の歴史意識の発達を阻害しました。困ったら中国や西洋を参照すればいいという甘え、自分自身で運命を切り開くという意思の欠如です。そういう意味では、現在の歴史学界は明治以降ひとつもアップデートされていません。

中央集権は日本の国柄に合わない

また、先ほど「表層意識の上では」と但書したように、漢民族的な中央集権的専制は日本人には合いません。皮膚感覚がそれを拒絶するのです。しかし明治維新で列強対抗策として「日本」建国以来の中央集権化(富国強兵)が成し遂げられると、政治家やテクノクラートはこの民族的違和感を逆手にとって、自分たちの権益を増やし続け、とうとう文民統制の義務さえ怠って今次の敗戦で国を滅ぼすところまでいきました。

戦後にはその反省もつかの間、いままた嬉々として “内国窮乏策” (移民拡大、規制緩和、民営化、消費増税・・・)に邁進している始末です。残念ながら、中央集権体制=保守と考えるような輩はすべて売国奴か亡国民です。中央集権的専制は漢民族の専売特許であり、日本においては間に合わせの体制に過ぎません。日本では諸地方(諸国)の連合体制こそ国柄の根本なのです。天皇という「空なる王」をいただく統治システムに明らかではありませんか。中央集権体制を止めない限り、日本の復活はないでしょう。

西尾氏の解説

こうした歪みを糺そうとして一昔前に西尾幹二氏を会長とする「新しい歴史教科書をつくる会」ができ、日本目線で日本史を語る教科書を検定に通そうと頑張りました。しかし完成した教科書の採択は思うように進まず、いまも一部の学校で採用されているに過ぎません。その西尾氏が近代歴史学界の歩みを概説しています。少し長くなりますが紹介しましょう(原文と英訳文を併記します)。

わが国に大学ができたときに、西洋の学者が西洋史をもってこれを世界史として講じたといわれています。お傭い外国人のひとりである、ランケの弟子のルートヴィヒ・リースです。世界史――当時は万国史といいましたが――だけでは十分ではないということで、次に国史学科ができました。

When modern universities were first established in Japan, one Western scholar reportedly taught Western history as world history. He, one of those so-called “hired foreigners,” was Ludwig Riess, a student of Leopold von Ranke. World history-known at the time as “universal history”-alone being deemed inadequate for the curriculum, Japanese history courses were then created.

ここは国の内部には詳しいけれど、研究方法は西洋に依存し、日本を取り巻く世界史の枠組みは西洋史のそれと同一であることにほとんど疑問を抱きませんでした。つまり西洋を模範として「追いつけ追い越せ」の近代化理論の内部で日本史を見ていた時代の産物です。戦後の国史を呪縛したマルクス主義的階級闘争史観はそうした西洋中心思想の一分派にすぎないのであって、今それが時代遅れになったからといって、西洋史に寄り添わせて国史を描く西洋中心的進歩史観が克服されたわけではありません。

These covered domestic affairs in detail but relied on the West for research methodology, and no one at the time questioned the assumption that the framework of world history encompassing Japan as the same as that for Western history. This approach was nothing but the product of an age which adopted the West as a model and which viewed Japanese history within the context of a “catch and surpass the West” modernization drive. The Marxist view of history as a record of class warfare that cast such a spell over Japanese historical study after World War II is simply an offshoot of this Western-oriented ideology, and the fact that this Marxist view has become anachronistic does not mean that the modern Western-oriented progressive view of history which frames Japanese history within the context of Western history has been surmounted.

すなわち、西洋は古代ギリシアに源を発し、中世の暗黒時代を克服して、ルネサンスでギリシア再獲得に成功し、フランス革命を経て、近代の自由主義・個人主義の理想を実現したという、西洋史が人類史の普遍のモデルであると見る自画自賛の史観を日本人が腹を据えて、本気で克服し、乗り超えているという情況ではまったくありません。子供たちの日本史の教科書をみてごらんなさい。いまだに文明のモデルは西洋にあるという明治時代の教えにじつに忠実です。

Japanese academia has by no means boldly cast off and transcended the use of the self-admiring perspective of Western history-within which the West sprung forth from ancient Greece, overcame the Dark Ages, reacquired the wisdom of Greece during the Renaissance, and thereby realized the modern ideals of liberalism and individualism-as a universal model for the history of mankind. An examination of the Japanese history textbooks used by children today shows that they remain loyal to the moral drawn by the Meiji Period that the model of civilization is to be found in the West.

東京帝国大学が改編され、文学部ができたときに、東洋史学科が生れました。西洋史学科と東洋史学科とに加え、国史学科は前から独立していたので、こうして歴史の学問は三本立てになりました。ところがこの東洋史学は基本的に中国史、支那史であって、すべての資料はどこまでも漢籍の埒内で蒐集され、解釈されるべきものだと頭から決められていて、広いアジア全域を見渡すという意識が育たなかった。

When Tokyo Imperial University was reorganized and a School of Humanities established, a Department of Eastern History was also born. The Department of Western History together with this new department and the already independent Department of Japanese History thus constituted a tripartite approach to the academic study of history. However, Eastern history was essentially Chinese history, with all historical materials drawn from among the Chinese classics and the interpretations thereof determined from the outset, and no historical awareness spanning the vastness of the whole of Asia was cultivated.

もし今、この現代で真剣に東洋史学を研究するなら、ユーラシア大陸のありとあらゆる多様な諸言語、トルコ語、ペルシア語、ロシア語、ウイグル語、チベット語、満州語、モンゴル語、ウズベク語等々に通じなければなにも恐らく解明できないでしょう。中国は広大なアジアの一部にすぎません。しかもたえず諸民族に支配され、王朝交替を強いられた被征服民族としての歴史のほうがずっと長い。10世紀に唐が崩壊して以後、一国の民族文化史としての中国の歴史などというものは、事実上存在しないというに等しい。

If one wished now to undertake serious research into Eastern history, a full elucidation of the history of Asia would require access to materials in Turkish, Russian, Uighur, Tibetan, Manchurian Mongolian, Uzbeki and a number of other languages from among the great linguistic variety of the Eurasian continent. China is no more than a part of a much wider Asia. Indeed, its history as a conquered people under the rule of a number of different ethnic groups and dynasties is actually longer than that as an autonomous nation-state. One can justifiably claim that Chinese history as the history of a ethnically homogeneous state ended with the collapse of the Tang dynasty in the 10th century, and did not exist after that.

東西で異なる歴史の定義

明治の知識人の基礎教養は漢学にあったため、近代の歴史教育は、中国のフィルターのかかった物差しで日本や目標とする英仏独の歴史を解釈するという離れ業を要求しました。天命史観という偏見に、西洋の進歩思想が覆いかぶさり、日本の歴史を不当なまでに卑下する習慣が生まれました。日本の独自性を守りたい勢力が、西洋史や東洋史(支那史)とは別に国史(日本史)を創設した辺りから、歴史学界はセクト化し、三大派閥がお互いに背を向けたまま今日に至ります。

無理もないのです。東洋の司馬遷と西洋のヘロドトスでは水と油ほどに歴史観が違います。両者を統合した世界史など紡げるはずがありません。

  • 司馬遷の歴史は、漢の支配を正当化するための手段であり、人間ではいかんともしがたい絶対的な天命というものを仮構します。それは人為で動かせないので、当然、ギリシャのように民主的な政体が生まれる契機は存在しません。実際、漢以降の中国史は単なる王朝交代史となります。革命とは天命が革(あらた)まるという意味ですから、連綿たる伝統など生まれようがありません。ずっと受け継がれるのは人間の統治に関する法思想くらいのものです。また、漢以降の王朝は中央アジアやモンゴルから押し寄せた遊牧民族の王朝が主流です。中国人にとって「史」は都度の王朝の正統性を書き記した公式記録に過ぎません。ですから日本人が何となく抱いている「中国=漢民族の国」というイメージは間違いなのです。
  • ヘロドトスの歴史は都市国家群が群居するギリシャが、古代の雄であるペルシャ帝国との戦いに勝利した衝撃から生まれました。なぜ弱小とも思えるギリシャがペルシャに勝てたのか、彼はその真因を探るべく出来事の調査報告を行ったのです。英語のhistoryの語源はギリシャ語のhistoriaですが、これは “learning through research, narration of what is learned” という意味です。つまり歴史とは「調査を通じて真相を学ぶこと、調査結果を記述すること」であり、人間の対立や抗争が動かすダイナミックなものなのです。これは司馬遷のいうスタティックな天命概念とは対照的な発想です。

明治の知識人は、英独仏へ至るダイナミックな欧州史を、中国式のスタティックな天命論で解釈しようとしたことになります。だからローマ帝国の政治トップを中国風に「皇帝」と呼び、レヴォリューション(元のさやに納まる大きな変化ほどの意味)を「革命」と訳したのでしょう。世界の「天命」は英独仏の繁栄に極まるという思い込みです。

歪んだ西欧偏重史観の形成

当時強盛だった英仏独だけが文明の究極目標であるかのように見なした日本人の関心は、それ以外の地域に向かなくなりました。この傾向は戦後も続き、いまでも覇権国のアメリカ史の扱いは軽いままですし、同じヨーロッパでも、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を中心とした東ローマ帝国領の歴史は軽視されています。

ローマと漢
ローマ帝国と漢王朝は同時にユーラシア大陸の東西に君臨していた。

そのため、アラブ世界、バルカン半島、ロシアや東欧・北欧などの歴史がエアポケットのように日本人の世界像から抜け落ち、狭く単線的な世界史ストーリーが益々日本人の歴史意識を歪めています。テレビの紀行番組を観てください。いまだにパリ、ロンドンでしょう。範囲を広げてもロマンチック街道かローマ、ベニス、フィレンツェ。すべてキリスト教国です。

また西洋社会はギリシャ・ローマの継承者を任じ、その起源をメソポタミアに求めていますが、これは中東にいたユダヤ民族のキリスト教を採用した影響です。他ならぬ古代ギリシャのヘロドトスが、ギリシャ文明の起源はエジプトにあると証言しているのに、エジプトの歴史は多くを学びません。

メソポタミアやエジプトと並んで重要なインド、ペルシャの歴史もほとんど触れられません。ましてや、ヨーロッパの中世を暗黒に見せ、ルネサンスの礎を築いたとさえいえるイスラム帝国の重要性を語ることはタブーになっているかのようです。現実の政治が歴史の世界に及んでいるのです。

これでは日本人の世界史像が歪まない方がどうかしているでしょう。

西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国はビザンツ帝国として健在だったが、世界の主流はイスラム帝国に移っていた。

自国中心に歴史を見れない日本人

繰り返しになりますが、現在の歴史教育には日本人の明らかな欠点―、有史以来一度も自国中心の歴史観を持たなかったという欠点が反映しています。西尾氏もこう書いています。

西洋の弱点を距離をもって見据え、冷静に批判的に西洋を研究して、日本の立脚点を明らかにしている西洋史家を私はひとりとして知りません。みな学習している対象国を崇拝してしまう事大主義者たちです。事大主義とは勢威のあるものに盲従し、服属する奴隷根性ということで、残念ながらわが国知識人の最大の弱点です。わが国には知識人あって、思想家が生れない所以です。こんなことでは「日本から見た世界史」という観点が成り立つはずがありません。

なぜ事大主義者の知識人ばかりが量産され「思想家が生れない」のでしょうか?

関連画像日本建国以来の独自発展路線

事実として冷静に見れば、日本は白村江の戦いで半島を追い出された倭人と、百済亡命勢力が結託して唐に対抗しようとしてできた国です。実際、その頃から「日本」を名乗り始めています。

中国式の律令的な体裁を整えつつ『日本書紀』を通じて「俺たちは他から干渉されず、独力で立派な国を築いてきた。その中心は神に連なる天皇家だ」と宣言しました。このときの自国中心主義は、そのまま歴史教育の三大派閥化に際して、日本史カテゴリーを聖域として設置した心根に反映しています。

つまり、外国に関しては古代より続く中国中心の東洋史、明治以来新たな目標となった英仏独をゴールとする西洋史の二本立てで片付け、日本に関してはその独自性を語り継ぐべく、東洋とも西洋とも切り離された研究領域を残したいという願望です。

言い換えれば、英仏独と中国という権威に対抗すべく彼らと同じ土俵で戦うのではなく、内側に引きこもる籠城的な戦法です。戦後、東洋史と西洋史は世界史に再編されましたが、日本史はそのまま延命しました。そうして、いまも世界と没交渉の日本像を子どもたちに押しつけているのです。

こうした引きこもり姿勢は、日本人の、世界と共通の土俵に立った歴史意識の陶冶を妨害しています。だから「思想家が生まれない」のです。いくら流暢に英語を操れても、語る内容が内向きなのではグローバルな議論にはならないし、関心を惹かないでしょう。しつこいようですが、中国人や西洋人と「同じ土俵」とは、彼らの世界観や価値観を甘受せよという意味ではありません。彼らの歴史や世界観を理解する努力の上に、堂々と外国人と渡り合えばいいのです。そのための武器が他ならぬ英語です。

ポイントを整理します・・・

  • 歴史ほどグローバル化社会で役立つ知的武装はありません。言い添えれば、今日、海外の歴史学界で「西洋史は歴史のスタンダードではない」ことは常識の中の常識です。日本人は何も憶する必要はありません。
  • 歴史意識の欠如、自国から見た世界史の欠落は政治家や官僚のマインドにも深い影を落としています。英語早期教育、移民拡大、水道民営化など、そのままでは「失敗するに決まっている」新自由主義的政策を得意げに続けるのはなぜかといえば、為政者のマインドの中に誤った「英仏独ゴール」がいまも巣食っているからです。早い話、新自由主義者たちは、特定先進国(英仏独+米)で推進された過去があるから真似しているに過ぎません。
  • もし失敗したらどうするのか?いざというときの担保は「シナ王朝」なのでしょう。そこには西尾氏のいう事大主義だけがあって日本という主体が存在しません。日本自身が、あなた自身が日本をどのような国にしたいのか、そういう最もベーシックな思いが欠落しているのです。
  • それは政治家にも企業人にも、百田氏のような保守言論人にも共通する病です。保守言論人こそ国際的な場に出て、「日本はどういう国か、これからどうしたいのか」を論じるべきなのに、彼らは内に閉じこもってがなり合うことで貴重な時間とエネルギーを空費しています。
  • 歴史を学べば彼我の違いに愕然とし、冷徹な歴史意識が生まれてきます。そのような歴史認識からリアリズムが生まれます。それを「偏狭なナショナリズム」と混同してしまう左派系の幼稚な議論は、国防といえば戦闘しか頭に思い浮かばないのと同じ精神構造の反映です。右同様、左もぬるま湯の言論空間(戦後レジューム)に甘え切っているのです。
  • どうせ西欧中心の世界史を学ばされるなら、彼らの手柄ではなくダメさ加減を学びましょう。宗教一つで千年も殺し合いを続ける異常性に気づきましょう。未来は彼らの精神性のままでOKなのか・・・歴史の勉強はそういうことを考える絶好の機会になります。

歴史に関わる名言集

最後にお口直しの名言集です。西洋文明の強みは合理的思考と神話的思考の共棲にあると思います。本サイトのタイトルを変えたのもそのことを言わんがためです。

日本が中国を範としたように、後進の野蛮人だったヨーロッパ人はギリシャに範をとることで、ギリシャ的な合理思考と、それを育んだ古代オリエント由来の神話思考の両方に親しんできました。キリスト教自体、このふたつの融合であるといえます。

この知的交流に大きく寄与したのは商人が開いた後発宗教のイスラム教です。イスラム教徒は、ペルシャ帝国を征服したとき、そこに大量に保存されていたギリシャ語文献を読んで驚嘆し、営々とアラビア語に翻訳しギリシャ思想を吸収していき、先進的な文明を築いたのです。スペインのイスラム系王朝が傾いたとき、トレドでアラビア語ギリシャ文献のラテン語訳事業が大々的に開始され、それがルネサンスの原動力となりました。このことひとつからでも、文明が相互交渉から育まれることがわかります。

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戦争は平和よりも悪い。それと同程度に、国民間の不和は他国との戦争協力よりも悪い。ヘロドトス

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ペルシャ人は非常なワイン好きだ。彼らは飲みながら大事な案件をああでもあないこうでもないと議論する習慣を持つ。翌朝、しらふになると、議論の場を提供した家の主人が前夜の結論を再度議題に出す。しらふの者がその決定に賛同すれば実行に移す。賛同しなければその決定は見送る。ときには最初からしらふのときに議題を討議する。その場合、議題はワインを交えて再検討するのが常だ。ヘロドトス

Poetry is finer and more philosophical than history; for poetry expresses the universal, and history only the particular. Aristotle

詩は歴史よりよきもの、哲学的なものである。詩は普遍を表わすが歴史は特殊を表わすに過ぎない。アリストテレス

Anybody can make history. Only a great man can write it. Oscar Wilde

歴史は各人が作れるが、それを書けるのは偉大な人間だけだ。オスカー・ワイルド

Human history in essence is the history of ideas. H. G. Wells

人間の歴史はつまるところ思想の歴史だ。H.G.ウェルズ

Neither the life of an individual nor the history of a society can be understood without understanding both. C. Wright Mills

個人の生涯と社会の歴史。両方を理解しなければどちらも理解できない。ライト・ミルズ(アメリカの社会学者)

To study history means submitting to chaos and nevertheless retaining faith in order and meaning. Hermann Hesse

歴史を学ぶとは混沌に身をゆだねつつも、秩序と意味への信を持ち続けることである。ヘルマン・ヘッセ

Who has fully realized that history is not contained in thick books but lives in our very blood? Carl Jung

歴史は厚い本の中になく我々の血そのものの中に生きている。そのことを本当にわかっている人はあるか?カール・ユング

 

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