【令和元日】天皇という君主政のマジックと時限爆弾を抱えたままの日本

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令和元年、あけましてあめでとうございます。平成さん、お疲れさまでした。

平成最後の日、テレビは金太郎飴のように象徴天皇、象徴天皇を繰り返し、秘蔵映像とやらで古式とは無縁の、グローバル化時代に「開かれた」皇室像の喧伝に余念がありませんでした。

対する国民はといえば、メディアは絵的な要請もあって(?)集まって騒ぐのが好きな人たちのカウントダウンやら盆踊り大会やらで盛り上がる場面ばかり取り上げていました。でも多くのみなさんは静かに事態を眺めていたに違いありません。

当サイトも喧噪を離れて、ひとりのカナダ人の書いた冷静な記事を紹介しようと思います。

(写真・産経新聞)

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新たな天皇を戴く日本

紹介するのは以下の記事です。全文ではなく、後半部を中心に抄訳でお目にかけます(見出しは原文になくブログ主によるもの)。

https://nationalpost.com/opinion/colby-cosh-indistinguishable-from-magic-on-japans-new-era?utm_medium=Social&utm_source=Twitter#Echobox=1556565579

著者のジャーナリストはカナダ人。カナダはアメリカ(共和制国家)と異なり、英連邦に属し、エリザベス女王を君主に戴く王国(君主制国家)です。同じ北米国家でも、カナダとアメリカは君主を持つか持たないかで決定的に異なるのでしょう。

象徴天皇制は暫定協定?

This sort of thing reminds us that, like the Japanese, we live under one of the world’s two really serious and enduring monarchies. Most others are of relatively recent vintage, and many have suffered outright abolition or eclipse, followed by self-conscious revival as political conveniences. One almost cannot help regarding them as knockoffs. I am oversimplifying, of course, but Japanese history teaches us, perhaps better than our own, to disregard the temptation to denounce monarchies as useless (or wasteful) just because they have no obvious everyday function.

この種のこと(※現代の英国法の世界にも元号に類したものがあること)は、私たちも日本人と同じように、世界に2つしか現存しない、本格的で長い歴史を持つ君主制の下に生きていることを思い出させる。 他の政体は比較的最近の産物で、多くの場合、王政を完全に廃絶するか徐々に無力化するかだ。政治的に都合のいい場合だけ意図的に君主を「復活」させるが、模造政体といわざるをえない。もちろん私は物事を単純化しすぎている。日本の歴史が―それは英連邦よりましかもしれないー私たちに教えているのは、おそらくこういうことなのだ。日常的に役立たないからといって君主制を無用の長物と非難する誘惑は退けた方がいい。

(中略)

※以下は、明治維新における目覚しい近代化を第一の奇蹟、敗戦後の経済復興を第二の奇蹟とする文脈を引き継いでいます。

If matters had been left up to American public opinion in 1945, or to the allies of the United States, or even to the American executive branch, the Japanese monarchy would have been abolished and the Emperor given a humiliating trial and death. Such a procedure could have easily been justified then, and can be justified in retrospect now. U.S. foreign policy almost always, in practice, seems to follow the country’s republican instincts.

1945年の時点でアメリカや連合国側の世論に、あるいはアメリカの行政府に日本の戦後処理が委ねられていたら、皇室は廃止され、時の天皇は屈辱的な裁判にかけられ死刑宣告を受けていたろう。実際そのような手順が踏まれた場合、当時もいまも、それ自体はたやすく正当化できる。アメリカの外交政策というのは事実上、ほぼ例外なく建国以来の「共和政の本能」に従うと見なせる。

But while Japan was defeated, it had not been invaded. So Gen. Douglas MacArthur and a few foreign-policy brainiacs reached a magnificent, cynical modus vivendi: they would exploit and reshape the Japanese monarchy rather than smashing it. As a soldier, MacArthur, made Supreme Commander of occupied Japan, would have shot the Emperor with his own sidearm and never lost a minute’s sleep. But he and others somehow managed to overcome racial and political prejudices, and perform an act of American “nation-building” that was not a cruel joke.

日本は敗北したが侵略はされなかった。ダグラス・マッカーサー将軍と彼らの外交政策に関わる頭脳集団が、壮大かつシニカルな「暫定協定」を採用したためだ。彼らは皇室を粉砕するのではなく巧妙に作り変え、うまく利用しようと考えた。軍人として被占領日本の最高司令官になったマッカーサーなら、腰のピストルで天皇を撃ち殺しても高いびきで眠れたろうが、現実のGHQは辛くも人種的・政治的偏見を乗り越え、アメリカなりに本気の「国づくり」を開始したのである。

modus vivendi
暫定協定。日本語wikiより英語wikiの定義の方がわかりやすいです。
Modus vivendi is a Latin phrase that means “mode of living” or “way of life”. It often is used to mean an arrangement or agreement that allows conflicting parties to coexist in peace.

Much of what the occupiers actually did had a republican, iconoclastic character. They stripped Hirohito’s family of its feudal trappings, made noblemen and collateral royals into ordinary citizens, and confiscated most of their property. They imposed a pacifistic constitution on Japan, one more radical and progressive than the U.S.’s own; that constitution still permits the monarchy to be abolished, which is the last thing anyone will think to do with it. The unimpressive, shy Hirohito was made to renounce claims to divinity and appear among the people.

米占領政府が日本で実施した政策は、その多くがいかにも共和主義的な性格を帯びていた。彼らは裕仁の家族から封建的な虚飾を奪うや、直系・傍系を問わず宮家を一般市民に降下させ、皇室財産の大半を没収した。そしてアメリカ以上に急進的かつ進歩的な平和主義憲法を日本に押し付けた。この憲法は原理的に皇室の廃絶を許容しており、実際どうするかは誰も最後まで考えたくない。そして内気で精彩を欠く印象の昭和天皇は神性の放棄を余儀なくされ、国民の前に生身をさらした。

「共産主義」抗体としての君主政

The Japanese public embraced the egalitarianism and the pacifism — and again, with astonishing speed, adapted to an all-new social schema. The Emperor was no longer a god, or the war-leader that the word “emperor” signifies, but the symbolic head of a national family. Hirohito’s awkwardness and humble scholarly interests, which he passed on to his son, became virtues rather than embarrassing secrets.

国民は平等主義と平和主義を受け入れ、またもや驚速で完全に新しい社会制度に適合した。天皇はもう神ではない。「皇帝」の称号が指し示す戦争指導者でもない。家族に見立てた国民の、象徴的な意味での長(おさ)になった。裕仁の所在なさげな感じと控えめな学究心は(息子の昭仁も多分にその気質を受け継いでいるが)美徳ではあっても、国民を当惑させる秘密ではなかった。

Japan has always had republican leftists, and their prestige was at its height after the war, which they had suffered for opposing. They advocated an explicitly republican Japan; the chief effect of this was to cost them the public goodwill they might have been thought to have earned. This, in turn, immunized Japan from communism, a benefit that the “victorious” Chinese allies did not enjoy.

日本には戦前から共和主義者の左翼がいた。反戦で厳しい弾圧を受けていた彼らは、戦後かつてない特権を享受した。共和主義者たちはあからさまに日本を共和化しようとした。しかし、その最大の帰結は、これら左派は自分たちが得られたかもしれない国民的支持を得られなかった、ということだ。おかげで日本は共産主義に対する免疫ができた。もちろん中国シンパの「敗戦利得者」は喜ばなかったが、国民にとっては左傾化がもたらしたメリットだった。

皇室という「高度な技術」

You have no doubt heard Arthur C. Clarke’s maxim that “any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.” The corollary no one mentions is that anything which is indistinguishable from magic should be considered advanced technology until someone proves otherwise. I think of this, and marvel, on the new Emperor’s day.

アーサー・C・クラークの誰もが知る格言にこうある、「十分に発達した技術は魔法と見分けがつかない」。そうでないと誰かが証明しない限り、魔法と見分けがつかない何ものは高度な技術も同然だ、というのが当然の帰結になる。私はそのことに思い至り、新天皇の日に驚異を新たにするのである。

<記事引用終わり>

君主政の現代的意義

戦後憲法はこの記事にも書かれているように「暫定協定」の産物で、恒久法になるかどうかは未確定です。当然、象徴天皇という君主のあり方もまた未確定のままです。それを確定的であるかのように扱うのは左派の専横に過ぎません。

いずれにせよ、この「暫定協定」の事態は国民の総意で「法的に」解消しなければ、戦後はいつまでも終わりません。

令和の可能性

令和の令の字は一義的には「決め事」「おきて」を意味しますが、それに「和」がついています。日本人が本当に「和」するための「令」(恒久的決め事)を持ってほしい、という願いなのかもしれません。

いわゆる戦後レジームは憲法の下に天皇が組み敷かれるという、共和思想が君主思想に優越する仕掛けの上に構築され、日本はいつ炸裂するかわからない「地雷」を抱えながら危うい歩みを続けてきました。

その危うさに十分自覚的な安倍内閣は憲法改正に打って出たのですが(というより、そもそも自民党は自主憲法制定が発足以来の党是なわけですが)、他ならぬ当の平成天皇(もう陛下ではない昭仁様)ご自身の大御心を得られず、事を成就できていません。上皇ご自身が「戦後」を容認し、国家ではなく個人を最優先するリベラルな信条を貫かれたからです。

しかし新たな天皇の御代が始まりました。いまのところ平成天皇の継承路線を歩まれようとしている徳仁天皇の大御心が、今後動かないとも限りません。令和は日本が戦後にどうケリをつけるのか注目の時代になります。

「日本の天皇は魂のように現存する。彼は常にそこに居るものであり、いつまでも居続けるものである。」(ポール・クローデル元フランス駐日大使)

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