【日本人の先端性】マネーゴッドとパーソナルの時代に日本人が果たす役割

2018-05-24お金の話, 宗教, 政治・社会, 文明文化の話, 貨幣論・歴史

謹賀新年

あけましておめでとうございます。本年も当サイトをよろしくお願いいたします。

せっかくの年頭ですので、今日は「ですます調」で現代潮流について思うところを述べてみたいと思います。

一神教時代からマネーゴッド時代へ

昨年末にかけて【語源学の旅】を通じて古代オリエント世界の歴史を扱い、一神教成立の謎を追いかけてきました(※2018.11.6、探求なかばで一部の記事を引き上げ、再検討中。テーマが巨大すぎて適切な英語ソースが見当たらない)。

一神教成立の話がAIの話にスムースにつながる気配がなかなか見えません。正直、トコシエがなぜそこまで一神教にこだわるのか、「そんなことを知って何の役に立つの?」とお腹立ちかもしれません。なんで役に立つのかは、この「姉妹サイトの記事」に書いていますので、ぜひ全文をお読みいただければと思います。その記事において、肝になるポイントを引用します。重要部分を太字にします。

おカネこそ現代人の宗教
おカネは現代人共通の神なのだとトコシエは考えています。いまの世界状況を見れば明らかではないでしょうか。欧米日本のいわゆる先進国グループは世界的な思潮の先端を歩んでいるはずですが、そこで一般的になっている考え方は何でしょうか?

いわゆるネオリベラリズム(新自由主義)の考え方です。政府は極力介入をせず、人々の自由意思に任せた方がよいというスタンスです(軍事や社会保障だけは生き死に直結するので別立てですが、その他のことは規制緩和あるいは規制撤廃が主流です)。

これは「自由が宗教(戒律)と政府(規制)に優越する」という考え方が受け入れられていることを示します。自由を保障するのは神の意思や政府の意思ではなく、いわゆる市場原理なのですから、自由=おカネの動きということになります。事実上、宗教と政治の敗北宣言です。聖職者も為政者(政治家と官僚)も「もう俺たちは責任取れないよ」と宣言したに等しいわけです。

そうなったのは、別に政治家や官僚が無能だからではありません。人類全体の選択の結果です。為政者が「市場に責任を転嫁する」流れは今後もどんどん当たり前になり、彼らは益々無責任になっていくでしょう。

彼らがそんなに無責任になれる背景には、平和の前提があります。人類は核兵器を持った結果、(小競り合いや代理戦争を除けば)大きな戦争をしなくなりました。別に人間が立派になったからではなく、日米欧の先進諸国が植民地主義・帝国主義競争の果てに、力づくで富を奪い取るより、ビジネスを通じて富を集める方が効率的なことに気づいたからです。

こうした現代を「マネーゴッドの時代」と呼ぶなら、マネーゴッドの時代に生きるということは、

宗教と政治がカネに覇権を譲った英語中心の世界

を生きることに他なりません。

英語で知的武装する意味

当サイトの旧名を「英語とつきあう」と言います。「英語とつきあう」ことに意味があるのは、基本的には、英語がおカネになる、あるいは英語圏に仕事が集まるからです。おカネが集まる場所で活躍できる方が有利だからです。

でも、単に英語が話せたり読めたり書けたりするだけでは不十分です。英語を通じて欧米人や英語を操るアジアやアフリカのライバルと渡り合える知的武装の方が大事です。今後、焦点になりそうな分野は両極端に振れるように思います。

  • ひとつは大きく世界を変えるだろう最先端技術の分野。諸科学とコンピューター科学の結合が起きる分野です。たとえば、AIとiPS技術が結合すれば、遠くない将来、人間のサイボーグ(義体)化が実現するでしょう。既成通貨へのチャレンジャーであるビットコインやリップルに代表される仮想通貨も、ブロックチェーン技術との絡みで新時代のビジネスモデルになる可能性があります。既存の金融技術とAI技術が融合すれば、もはやキャッシュのような実体通貨は不要になるからです。
  • もうひとつは、逆にあくまでもパーソナルな方向です。個人個人の思いや気持ちに寄り添うサービスや製品です。こちらは長い「おもてなし文化」を持ち、アニメマンガやコスプレの発信源である日本が有利になりそうな領域です。とくに英語と関係なさそうですが、そんなことはありません。日本人的なきめ細かさ、繊細さ、友好性、穏やかさはAIや自動化やデジタル通貨が席巻すればするほど、人間の隠れ処として重視されていくだろうし、その際、日本を飛び越えていくには英語の通用力が欠かせない武器になるからです。

マネーゴッドとパーソナルの時代における日本人の役割

しかし、ここでもうひとつ考えなければいけないことがあります。ネオリベラリズムとおカネの結婚は何によってもたらされたか、という点です。

ここで古代オリエントの勉強が効いてくるのです。非常に簡略化してしまえば、人類史は以下のように流れています。

  1. 上古=自然崇拝→神概念の発生
  2. 古代=多神の並立
  3. 古代オリエント=一神教へ集約
  4. ローマ帝国=西方一神教に対して、イスラム教=東方一神教が成立
  5. 東西一神教内の覇権争い→西方一神教の優位
  6. 20世紀の共産革命(疑似一神教支配)と世界戦争
  7. 戦後の一神教無効化→現代のネオリベラリズム(自由至上の価値観→マネーゴッドとパーソナルの時代)
  8. AIゴッド?人間自身の神格化?

一神教徒のこころのかたち

問題は、東西一神教の内部では、マネーゴッド/パーソナル化時代への意識的な覇権委譲が起きていない点にあります。東西一神教徒の頭の中にはいまだにゴッドの亡霊が生き続けています。彼らの社会コード(風習、習俗、法制度、行動規範、他国との共有文化)のすべてがこのゴッドに基づいて設計されているため、それは水や空気のように自明視されていて疑問視されないのです。

たとえば、19世紀から20世紀前半にかけてヨーロッパ人は精神的に大いに追いつめられ、ニーチェやキルケゴール、あるいはドストエフスキーやロレンスといった既成の宗教を根底から疑う思想家を生み出しましたが、彼らは制度としての教会を否定しても、イエスその人を否定した人は誰もいません。「愛の宗教」はつねに彼らのこころの柔らかい部分に温存されているのです。

彼ら欧米人は、おそらくイスラム教徒も含めて、社会や教会が事実上マネーゴッドに白旗を挙げてしまった事実、社会や教会の腐敗や堕落が実は一神教という精神システムそのものに起因していることを認めたがらないのです。プロブレムはあくまで外在的、制度的に改善可能なものと見なされているのです。これは非一神教徒の人類にとっては大迷惑な話です。東西一神教徒は非一神教徒に対しては強烈な支配性、攻撃性、排他性のかたまりとして機能するからです。

このような頑迷さを保守と呼ぶなら、東西一神教徒は地球上最大の守旧派です。

そのような守旧派が自由を唱え、ネオリベ運動に邁進し、全知全能のAIの完成を目指して邁進しているのです。それどころか、自由主義を助長し、研究開発に投資売るマネー経済の主体自体がほぼ一神教徒で独占されているのです。ブログ主はここに人類のあやうさを感じます。

一神教徒が不得意な部分を扱える日本人

同じことを裏返しにいうなら、そんなマネーゴッド時代だからこそパーソナルな部分に関心が向かうのです。そのとき、非一神教的な人類の英知、脱一神教的な志向性で際立つ大乗仏教系、とりわけ禅宗のセンターになっている日本人の役割が軽いはずがありません。emojiを見てください。欧米人は、emojiのemoをemotionのemoだと勘違いしているようですが、そのこと自体に彼我のズレが見られて面白いと思います。欧米人はemotionとセットでつねにreasonを意識します。人間を人間たらしめている理性こそ脳内のゴッドであって、感情は眷属か臣下に過ぎません。感情は理性にとって乗り越えられる動物的要素なのです。

ところが、日本人は違います。日本人にとって感情とは結局、思いや気持ちといったことばに集約されていきます。日本人の思いや気持ちとは、いったん理性のフィルターを通った先に表れてくる精神の基質のようなものです。それがemojiに表出しているわけです。このような精妙な精神の動きを日本人はことばや理屈で表現しません。絵やかたちで表現するのです。ここに今後の日本の行く先を考えるヒントが隠されています。

事実上マネーゴッドに拝跪している東西一神教の人々は、自分たちが伝統的なゴッドを捨てた無神論者だとは思っていません。だから世俗化にやましさを感じ、ゴッドに対して彼らは不安なのです。現代リベラルのいい子ぶりっ子が好まれるのはなぜか?世俗化していく自分たちがゴッドに罰せられないように「博愛主義者」「平等主義者」を演じているのです。

さいわい日本人にはそのようなプレッシャーがありません。それは日本人の絶対的なアドバンテージです。世界的な世俗化の流れはもう変わりません。なぜなら、一神教の根源は欲望であり、不足への恐怖だからです。どんなにきれいごとを言っても、最終的には世俗的な物質主義へ向かいます。だから制度としての宗教は衰退していくしかないのです。

そのような意味で「足るを知っている」日本人は一歩も二歩も現代的世俗社会の先を歩んでいる人類なのです。

日本人の進むべき方向

未来を生きる術は過去に探るしかありません。伝統は追憶の中にしかないとしても、現代日本人の遺伝子の中には先祖から引き継いだ記憶がしまわれています。日本人が一神教を選ばず、まるで現代を先取りするかのように、宗教にゆるい文化を築いてきた意味がようやく自覚され、真剣に学ばれる時代に入ったのかもしれません。神なくして精神を高く保つ術は、今後、どんどん世界的に求められていくでしょう。そこには無数のビジネスチャンスも生まれるのではないでしょうか。