【英語で読む日本人と宗教02】選ぶアブラハム宗教、選ばない日本宗教

2019-01-24宗教, 文明文化の話

前回に引き続き、日本人の宗教観について考えよう。議論はキリスト教を含むアブラハム宗教の登場で緊張を帯びる。おそらく日本人が日本人であり続ける限り、永久にアブラハム宗教を受け入れないと思う。それは何故なのだろう?できれば、その秘密の一端を解き明かしてみたい。

出典“Japan: The Most Religious Atheist Country” by Matthew Coslett


※2019.1.24 補筆・改稿

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日本人の微妙な宗教感覚

イアン・リーダー(Ian Reader)という宗教学者の議論が紹介される。

“Surveys usually ask about religious belief (shuukyou shin 宗教心- having a religious mind), but that can be interpreted by ordinary people as asking if they have faith in a ‘specific religious organization’. Most would answer no,” He explains, “It does not mean they are ‘atheist’ in terms of denying existence of a god. These studies indicate a ‘not quite sure’ attitude as a rule.”

ふつうの日本人の場合、自分の宗教心(信仰の有無)について尋ねられると、何らかの宗教団体に属しているかと訊かれたのだと解釈して、「いいえ」と答える。それは「自分は神の存在を否定する無神論者です」という意味ではない。宗教意識の調査からわかるのは、日本人は総体として「よくわからない」、信仰があるともないとも決めかねている人が多いことを示す。

「信」にウェイトを置く無神論vs有神論、「知」にウェイトを置く可知論と不可知論

‘not quite sure’ という部分否定。神があるともないとも言い切れない、という微妙な日本人の宗教感覚。これは大事なポイントだ。この心的態度は、ある意味、近代ヨーロッパの世俗化(近代啓蒙思想)を先取りしている。

世俗化とは、ヨーロッパ人が中世以来のカトリック教会の抑圧から解き放たれ、「神があるともないとも言い切れない」と正々堂々と言えるようになった、という喜びを意味する。彼らは長年、正々堂々と本音を言えなかったのだ。だから、何かにつけヨーロッパ人は自由を称揚し守ろうとする。その病的なまでの自由へのこだわりは、昔から宗教のしばりが緩い日本人の想像を超えている。

「日本人」化するヨーロッパ社会

ヨーロッパ社会には、日本人と同じ「否定もしないが肯定もしない」宗教態度を共有する人口が増えている(アメリカ?アメリカは例外的にいまも宗教心の強い国だが、それでも同じような傾向は見られる)。こうした人々を向こうではagnosticと呼ぶ。反対語はグノーシスで有名な gnostic。日本語にすると「不可知論者」「可知論」となるが、いかにもこなれない。

要するにgnosticは「確信する人」だ。「神の存在を確実に知っている」あるいは「神の不存在を確実に知っている」。それに対してagnosticは「神の存在(不存在)を確実に知ってはいない」。なんで素直に「神の存在を確信している」と書かないかといえば、このことばの意味のウェイトは「神が存在するかしないか」ではなく、「あなたがそれを知っているか知っていないか」にかかっているからだ。「知」の問題なのである。

これに対して有神論者(theist)、無神論者(atheist)というペアでは「知」より「信」にウェイトが置かれている。「神の存在を信じる」か「神の不在を信じるか」の違いで、事実、神が存在するかしないかとは別の次元の問題なのだ。

なんだかわかりにくと思うが、西洋人の精神構造を理解する上で避けて通れない議論なのであえて解説してみた。これらのことばについては別サイトに記事を書いているので、そちらも参照してほしい。

宗教態度に関わる様々なことば
athesim(atheist)・・・無神論(無神論者)類語に、non-believer、unbeliever、disbeliever、impious、infidel、pagan、areligious、nonreligious、irreligious、secularなど。
theism(theist)・・・有神論(有神論者)。類語に、believer、pious、fidel、follower、devotee、fanatic、adherent、faithfulなど。
agnosticism(agnostic)・・・不可知論(不可知論者)
gnosticism(gnostic)・・・可知論、グノーシス主義(可知論者、グノーシス主義者)※英語の -ism は必ずしも「主義」(ideology)と合致しない。語源のギリシャ語 -ismos の意味は “act”、”state”、”theory”。たとえば、heroismやterrorismの-ismは、主義(ideology)ではなく行動(act)もしくは状態(state)を意味する。日本語にするときは文脈で訳し分ける以外にない。

アブラハム宗教の思い込み

Japanese religions are somewhat unclear on the matter. After all, are the kami, spirits and ancestral entities that make up the Japanese indigenous beliefs really equivalent to the god of the Abrahamic religions?

日本人は唯一神の存在を前提としない。それでは「神や霊や祖先などが構成する土着信仰が、アブラハム宗教の神に相当するのだろうか?」・・・ん?ちょっと素通りできない文章だ。

“Abrahamic religions” とは同じヤハウェという単一の神への信仰に発したユダヤ教、キリスト教、イスラム教の総称だ。始祖を預言者アブラハム(Abraham、発音はエイブラハム)に置くため、このように呼ぶ。今日世界宗教とも呼ばれるメジャーな一神教(monotheism)を総称するときアブラハム宗教という言い方をする。

上記の引用文では日本の土着信仰と “Abrahamic religions” を比較している。そこにはアブラハム宗教が土着信仰を脱した “高級” 宗教だという暗黙の前提が流れている(野蛮⇒文明というリニアな進歩史観)。どこにも明示的には書かれていないが、この物言いそのもののうちに、そのような蔑視が無意識に流れ込んでいるのではないか?この感覚はブログ主が英語文献を読んでいてたびたび感じるものだ。

そもそも日本の神という概念は定義に困る代物だとして、以下のように続く。

Fundamental life principles, celestial bodies, natural forces, topographical features, natural objects, certain animals, the spirits of the dead and even influential people could all happily be included in a concise definition of the kami. It is a little difficult to say that you don’t believe in ‘natural forces’ and ‘fundamental life principles’!

日本の神はそれを簡便に定義するだけでも、生命の基本原理、天体、自然の力、地勢、自然物、特定の動物、死者の霊、そして影響力のある人物までもが楽し気に入り込んでくる。生命の原理や自然の猛威は信じるも信じないもない代物ではないか!

おそらく、ここには、信じるも信じないもないもの(=自然や生命現象)を後生大事に信じているのは原始的な心性(primitive mentality)だという予断がある。こういうメンタリティを英語ではpaganとかheathenとかanimisticと呼ぶ。それは西洋人のreligionのカテゴリーの外に捨て去られた心性なのだ。

一神教徒は日本を通じて自分が捨て去ったはずの “過去” と対面している

さらに注意深く読んでいこう。上の文章は日本の神を説明しつつ、同時にアブラハム宗教は “信じるも信じないもない代物ではない” と告白しているに等しい。それは信じるか信じないかの二者択一を迫るシステムだ、と。

だから一神教徒に宗教的な意味での “自然体” はありえない。信仰は人間が選び取る(あるいは選び取ることを余儀なくされる)ものだ。彼らはそれを「神に選ばれた(the chosen、the elect)」、あるいは「神の恵み(恩寵、grace)を受けた」と解釈する。これが選民意識や優越意識といったエリート思想(elitism)の温床となり、異教徒迫害(差別)の動機付けとなる。「無知蒙昧な人間を教化(啓蒙)する」というのはキリスト宣教師が植民地に先兵として入ったときの大義名分だった。いわゆるミッション(mission)だ。

一方、日本人はいつも “自然体” である。日本の “自然体” がしばしば奇異の眼で見られ不思議がられるのは、近代化し文明化したはずの日本社会が、近代人(もしくは一神教徒)がとっくに克服したはずの原始的心性に安住しているように映るからではないかと思う。

イアン・リーダー教授は、日本では文化と宗教を切り離して考えることは得策でないという。

“Japanese society and culture are intricately interwoven with religious themes,” He writes, “(Japanese religion) is a deep and continuing stream of religious motifs interwoven with, rather than separate from, other aspects of Japanese life and society.”

「日本の社会や文化には宗教的な主題が複雑に織り込まれている。日本人の宗教性は生活や社会の非宗教的側面から切り離されて存在しているのではなく、そこに深く織り込まれ、連綿とした流れのように繰り返し立ち現れてくる」という。この学者はよく日本人のことを理解してくれているのはないだろうか。

“religious motif” という表現は訳しにくい。モチーフとはご存知のように音楽や小説で反復される主題のことだ。宗教的なモチーフとは、この場合、生活道具や生活様式、芸能や祭祀などの文化、人々の立ち居振る舞いなど日本文化のいたるところに、共通の宗教性(自然や先祖への崇拝)が埋め込まれている、という意味だと思う。たとえば、一見宗教とは無関係に見える茶の作法には禅の精神が反映している。あるいは床を雑巾がけするという何気ない生活行為は神道的な禊の情操に通じている。

「ヘブライ ギリシャ」の画像検索結果

選び取るしかないものと生まれ出るもの

In other words, religion in Japan isn’t something that you can choose whether to ‘believe’ or ‘not believe’ in. It’s so prevalent and all-encompassing that one cannot exist without the other.

“The religion-secular dichotomy simply doesn’t work in the analysis of Japanese institutions. Ritual is pervasive at every level of society. “

“religion-secular dichotomy”、ここにアブラハム宗教の根本、その文明世界の掟が語られている。

“dichotomy” の語源はギリシャ語の dikhotomia“cutting in half” を意味する。「信じるか、信じないか」で人間は真っ二つに引き裂かれる。アブラハム宗教の世界には、このようなあれかこれかの厳しい緊張状態が埋め込まれている。抑え込んだ何ものかは時に爆発し、圧倒的な勢いで殺戮や強奪に結びつく。

ユダヤ思想とヘレニズム

そのような二者択一の厳しい抑圧に社会が耐えきれなくなったときルネッサンスが興隆した。皮肉なことにイスラム教徒のアラビア語翻訳を重訳することを通じて。キリスト教のベースは砂漠生まれのユダヤ思想(semitism)。本来、唯一神であるヤハウェ(エロイム、エル)はユダヤ人の民族神で、ヨーロッパの風土とは根本的に異質な土壌から出ている。それが生体拒絶反応のように西洋内部に矛盾を鬱屈させる。そして矛盾を解消するはけぐちが選ばれたのが、ギリシャ・ローマに連なるヘレニズム思想(hellenism)だった。この二大要素はつねに欧米人の精神のなかでせめぎあっている。逆に言えば、だからこそ西洋文明は懐が深い。

 

“Religion is something to believe in or not.” とは西欧の宗教観が集約された一文である。

彼らにとって宗教とは選び取らされるものだ。一方で日本人にとってはそこへ生まれ出るものなのである。

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