【英語で読む日本人の宗教02】個々人に織り込まれた宗教性

前回に引き続き以下の記事をもとに日本人の宗教観について考えたい。

出典“Japan: The Most Religious Atheist Country” by Matthew Coslett

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日本人の微妙な宗教感覚

Ian Reader という宗教学者の議論が紹介される。

“Surveys usually ask about religious belief (shuukyou shin 宗教心- having a religious mind), but that can be interpreted by ordinary people as asking if they have faith in a ‘specific religious organization’. Most would answer no,” He explains, “It does not mean they are ‘atheist’ in terms of denying existence of a god. These studies indicate a ‘not quite sure’ attitude as a rule.”

宗教心があるかを尋ねられると、ふつうの日本人は特定の宗教団体を思い浮かべるから、「いいえ」と答える。それは特定の団体に属していないという意味に過ぎず、必ずしも神の存在そのものを否定することを意味しないという。宗教に関する調査結果からわかるのは、総体として「自分でもよくわからない」日本人が多いということだけではないか。

アブラハム宗教の思い込み

Japanese religions are somewhat unclear on the matter. After all, are the kami, spirits and ancestral entities that make up the Japanese indigenous beliefs really equivalent to the god of the Abrahamic religions?

日本人は唯一神の存在を前提としない。それでは「神や霊や祖先などが構成する土着信仰が、アブラハム宗教の神に相当するのだろうか?」・・・ん?ちょっと素通りできない文章だ。

ここでは日本の土着信仰と “Abrahamic religions” が比較されている。”Abrahamic religions” とは同じヤハウェから発したユダヤ、キリスト、イスラム教の総称だ。今日世界宗教と呼ばれる一神教をまとめてこう呼ぶ。

この比較には、アブラハム宗教が土着信仰を脱した “高級” 宗教だという暗黙の前提が流れている。どこにもそう書かれていないが、この物言いそのもののうちに、そういう判断が無意識にあると感じる。この感覚はトコシエが英語文献を読んでいてたびたび感じるものだ。

そもそも日本の神という概念は定義に困る代物だとして、以下のように続く。

Fundamental life principles, celestial bodies, natural forces, topographical features, natural objects, certain animals, the spirits of the dead and even influential people could all happily be included in a concise definition of the kami. It is a little difficult to say that you don’t believe in ‘natural forces’ and ‘fundamental life principles’!

「神の簡便な定義のなかには、生命の基本原理、天体、自然の力、地勢、自然物、特定の動物、死者の霊、そして影響力のある人物までもが楽し気に入り込んでくる」。「生命の原理や自然の猛威は信じるも信じないもない代物ではないか!」

一神教徒は日本を通じて自分の “過去” に対面している

ここは注意深く読むべき箇所だ。これは日本の宗教を説明しつつ、アブラハム宗教とは “信じるも信じないもない代物ではない” と告白しているに等しい。それは信じるか信じないかの二者択一を迫るシステムだ、と。

だから一神教徒に宗教的な意味で “自然体” はありえない。一方、日本人はいつも “自然体” である。日本の “自然体” がしばしば奇異の眼で見られ不思議がられるのもここから来ているような気がする。結局、彼らが日本人を通じて感じているのは、彼らが克服してきたはずの過去の世界なのではないかと思う。

Ian Reader教授は、日本では文化と宗教を切り離して考えることは得策でないという。

“Japanese society and culture are intricately interwoven with religious themes,” He writes, “(Japanese religion) is a deep and continuing stream of religious motifs interwoven with, rather than separate from, other aspects of Japanese life and society.”

「日本の社会や文化には宗教的な主題が複雑に織り込まれている。日本人の宗教性は生活や社会の非宗教的側面から切り離されて存在しているのではなく、そこに深く織り込まれ、連綿とした流れのように繰り返し立ち現れてくる」という。この学者はよく日本人のことを理解してくれているのはないだろうか。

“religious motif” という表現は意味は分かっても訳しにくい。モチーフとはご存知のように音楽や小説で反復される主題のことだ。宗教的なモチーフとは、この場合、生活や文化の至るところに宗教性が埋め込まれている意味かと思う。例えば、一見宗教とは無関係に見える茶の作法に禅の精神が反映している。あるいは床を雑巾がけするという何気ない生活行為は神道的な禊の情操に通じている。

選び取るしかないものと生まれ出るもの

In other words, religion in Japan isn’t something that you can choose whether to ‘believe’ or ‘not believe’ in. It’s so prevalent and all-encompassing that one cannot exist without the other.

“The religion-secular dichotomy simply doesn’t work in the analysis of Japanese institutions. Ritual is pervasive at every level of society. “

“religion-secular dichotomy”、ここにアブラハム宗教の根本が語られている。彼らは徹頭徹尾、”dichotomy” の世界観の中で生きている。本人たちも気づているが、知らず知らずのうちに二元論思考になってしまう。ちなみに語源的には、この “dichotomy”、”cut in half”(真っ二つに割る)を意味する。

先ほどトコシエが指摘したことを筆者がみずから言っている。西欧では “Religion is something to believe in or not.” であると告白しているようなものではないか。

彼らにとって宗教とは選び取らされるものなのだ。一方で日本人にとってはそこへ生まれ出るものなのである。