【倫理】フレディ・マーキュリーが受け継いだパールシーの精神遺産
妖精というペルソナ
ロゴのシンボリズム
中心のQ字のリボンと王冠はクイーンというバンドそのもの。
王冠の上で翼を広げているのはバンドの永遠性を象徴する不死鳥です。
Qリボンの上に載っている蟹はかに座生まれのブライアン・メイ、左右のライオンはしし座生まれのロジャー・テイラーとジョン・ディーコン、そしてQの左右にいる二人(?)の妖精がおとめ座生まれのフレディだそうです。
フレディ・マーキュリーは自分を妖精と同一視していたわけですね。しかも一体ではなく二体として。これは意味深です。
善悪対立の2つのかたち
フレディはゾロアスター教徒でした。ゾロアスター教はこの世界を善と悪が闘う場だと説きました。ブリタニカの説明によれば、それは古代イランの伝統に深く根ざしているといいます。
The most prominent and unique feature of ancient Iranian religion was the development of dualism, primarily expressed in the opposition of truth (arta) and falsehood (drug, drauga).
Originally confined to ideas of social and natural order opposed by disorder and chaos, a dualistic ideology came to permeate all aspects of life. The pantheon was divided between the gods and demons. Especially under the influence of the magi, members of a priestly tribe of Median origin, the animal kingdom was divided into two classes: beneficent animals and noxious creatures. Even in vocabulary there developed a system of “ahuric” and “daivic” words for such things as body parts: for example, the word zasta was used for the hand of a righteous person and gava for the hand of an evil person.
古代イランの宗教の独自性を際立たせている特徴は二元論の発達である。それは主に真(アルタ)と偽(ドルジ)の対立として諸事全般に適用される。
そもそも古代人が二元的思考に目覚めたのは、社会や自然の秩序を脅かす無秩序と混沌の存在を意識したときだ。それ以降、神殿は善なる神々とデーモンに分割され、デーモンは追い払われた。動物の王国も、メディア王国出身のマギ神官の教導により、人間に益のある益獣と、そうでない害獣という序列が生まれた。果ては言語にも対立が持ち込まれる。善なるアフラと悪なるダエーワが、善い人の手はzasta、悪い人の手はgavaという風に身体の部位まで区別するようになったのだ。
It is important to note that this was not a gnostic system, like those that flourished in the Middle East during the early centuries of the Common Era, as there was no myth of evil matter coming into being through the corruption and fall of a spiritual being.
だがここで大事なのは、同じ善悪二元論でも紀元後の数世紀間隆盛したグノーシス思想とは違うということだ。古代イランには、グノーシスのように(善なる)霊的存在の堕落や崩壊が悪を実在させる、という神話は存在しない。
善悪二元論と自由意志
世界初の預言者と言われるゾロアスター教の開祖ザラスシュトラは、世界は善神(アフラ)のつくった世界と悪神(ダエーワ)のつくった世界に分かれ、12,000年間戦い続けると予言しました。両者は3,000年ずつ四期にわたって戦い続けますが、アフラの最終勝利はすでに確定しています。この神の次元の対立に照応して、霊の世界も善と悪が対立しています。それが上の文章に出てきたアルタ(通常はアシャ)とドルジです。
どちらにしても明確な決定論です。善は善、悪は悪、変えようがありません。ひとつの善の本質(=神)から悪(サタン)が生まれたと考えるユダヤ・キリスト教や、堕落神がつくったこの世から神のもとへ還ることを目指すグノーシス思想とは明らかに異質です。ゾロアスター教の方がはるかに徹底した二元論だと言えるでしょう。
そのためゾロアスター教は人の自由意志を重んじます。各自の選択の結果が審判のとき報いをもたらしますが、誰にも文句は言えません。誰が強制した人生でもないからです。したがってゾロアスター教徒に厳しい修行のようなものはありません。何を食べても自由ですし、酒を飲んでも構いません。ただ子孫を残すために近親婚が義務付けられています。ゾロアスター教徒が他の一神教と違うのは、悪とは戦いますが、関係のない他者を攻撃したり、啓蒙したり、善導しようと試みるお節介はしないという点です。
このような思想的背景を知ると、パールシーが命を賭してまでインドに同化しようとした理由もわかろうというものです。悪に故国を追われたのですから悪からインドを守る必要があります。また同化すれば、インド国内の悪からパールシ-のコミュニティを守ることが容易になります。
しかし、現代のように異質な文化やマイノリティの権利を闇雲に認めて共存を目指す社会では、パールシーの厳しい二元論と自由意志の世界は誤解されやすく、そもそもなじまないでしょう。きっとフレディは、パールシーが禁じている己のセクシャリティに苦しんだと思います。いくら自由意志と言っても、もしそれが悪ならば救われようのない運命が待っているからです。
ボヘミアン・ラプソディ主人公の「悪」
Mama, just killed a man
Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he’s dead
Mama, life had just begun
ボヘミアン・ラプソデの主人公は人(a man)を殺しました。このmanはおそらく主人公にママ(社会)から期待されていたペルソナの象徴です。その期待に背く「悪」の自分が許せなくて銃を撃ったのでしょう。しかし裁判は主人公を許しません。犯罪者の更生を前提とする日本の刑法精神とは明らかに異質です。
もちろん、フレディが当時の社会通念に負けてバイセクシャルの自分を殺したのだ、と解釈することもできます。もしそうなら「社会」が「悪」という理屈になりますが、この曲はプロテストソングではありません。フレディは主人公を正当化して「社会」を責めていないからです。むしろフレディはパールシーらしく周囲に溶け込もうとしていたように見えます。だからこそ人一倍苦しんだのです。
フレディの倫理性
ではフレディにとって主人公の本当の「悪」はどこにあったのでしょうか?
おそらく、原理的に解消できない二元相剋(善と悪の絶対的矛盾)を、(霊的次元と関係ない)即物的な方法で解決しようとするイデオロギーや行動様式こそ「悪」だったのではないでしょうか。主人公は、いにしえの預言者が教えたアシャとしての判断を喪失したゆえに救われないのです。これは唯物的精神に冒された現代社会への警鐘にも響きます。
どんな理由があれ、霊的な格闘を怠ったことにフレディは憤っています。だから曲の最後の最後まで主人公を許していないのです。冒頭にフレディの「倫理性」と書いた所以です。
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