【文化の重層性09】神秘思想・秘儀宗教とキリスト教

引き続きハイネのお世話になりたい(今回は英語少な目)。

前回は、第一層のキリスト教から発展したロゴス(理性崇拝)の世界が、神というつっかえ棒を失い、自己運動を始めたこと。そしてその自己運動が、第三層の基層信仰の世界の情念と結びついて、ナチスという空前の悲劇に帰結したのを見た。神に成り代わる理性的存在はずだった人間が、最も野蛮なジェノサイドを敢行するに至った悲劇である。

今回は、第二層を構成する神秘思想(秘儀、密儀)の世界を見てみよう。

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神秘主義(思想)とは何か?

そもそも神秘主義(mysticism)とは何なのだろうか?

日本語で神秘思想といい、秘儀宗教という。共通するのは「秘」の文字だ。それは何よりもまず「秘められてあること」が重要な要素だ。

事情は英語も同じで、神秘思想はmysticism、秘儀宗教はmysteryもしくはmystical religionという。「秘められた」思想や宗教に奉じる人をmytic(神秘家)と呼ぶ。キリスト教が公式宗教になって以降も、教会外はもちろん教会内部にさえ神秘家は数多く存在した。それだけの厚みがある伝統なのである。

参入儀式(イニシエーション)

mysticの語源は一般的には「閉じる」を意味するギリシャ語のmuoだとされるが、その意味は「閉じる」である。このmuoとmusterion(mysteryの語源)から動詞mueo が派生する。「入門(参入)する」という意味になる。

これは今日でもイニシエーションというように、秘儀(密議)に参加する資格を与えられること、儀礼を通じて秘儀に参加することを意味する。そこから二義的に「教える」「導く」といった意味も派生した。

つまり、神秘思想や秘儀宗教とは「閉じられた組織への参入・儀式を通じて、神に直接通じる神人合一の秘儀(ウニオ・ミスティカ、unio mystica)を教わる行為」なのである。

基本的に秘儀は限られたメンバーによって非公開の場で行われる。その詳しい内容や教えは口外が禁じられ、部外部からはうかがい知れない。当然、合理的説明のつかない超常(超自然的)現象の発生が想定されている。

ポルトガルのレガレイラ宮殿にあるイニシエーションの井戸(出典:http://www.thetouchofsound.com/sounds/initiation-well-sintra-portugal/)

キリスト教の根幹にある神秘主義的要素

現在見られるキリスト教の典礼(liturgy)は、こうした秘教的な要素を古い宗教から受け継ぎながらも、教会という公共の場を用意することで限りなく世俗生活へ近づけてある(典礼の語源であるレイトゥルギアというギリシャ語は「公衆のために行われる奉仕」を意味する)。だから秘教的なにおいはそれほど強くない。

それでも布教に有益と見なされた秘教的要素は残されている。たとえば、父なる神、子なる神、聖霊のペルソナが同一の神の顕れとする三位一体論(Trinity)は、そもそも聖書には書かれておらず、いわゆる福音(gospel)とは無関係なコンセプトだ。三位一体論は神秘思想家の面目躍如たるウルトラCであり、彼らの誰かが受肉(incarnastion、神の肉体化)という創発的概念を思いついたとき、神と人の間に聖霊という奇跡的概念が生まれたのだ。

また、マリアの処女懐胎(the Virgin birth of Jesus)やイエスの復活(the Resurrection of Jesus)といった事蹟にしても合理的理性だけでは受け入れがたい。強い神秘主義的なイニシエーションが求められるだろう。

サクラメントに反映される古代の秘儀

キリスト教の典礼をサクラメント(sacrament)という。サクラメントとは、イエスが地上で為したことを象徴的に儀礼化したもので、洗礼、聖餐、婚姻などの各儀式にはそれぞれ聖書上に典拠となる記述がある。神のしるしが永久に現世に遺されたという理屈なのである。

  • カトリック教会のサクラメント(カトリック教会は「秘跡」の訳語を採用)は、洗礼・堅信・聖餐・赦しの秘跡・病者の塗油・叙階・婚姻の7つの儀式で構成される。
  • プロテスタントのサクラメント(プロテスタント教会は「礼典」または「聖礼典」の訳語を採用)は簡素化されており、洗礼と聖餐の2儀式のみを執り行う。

サクラメントのことなど滅多に触れる機会もないと思うので、次回記事で改めて説明したい。

グノーシス主義とマニ教

キリスト教には多くの神秘思想・秘儀宗教の要素が取り込まれ、それとなく埋め込まれている。ハイネが力説しているのはグノーシス派(Gnosticism)と、そこから派生したマニ教(Manichaeism)である。

ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』で次のようにいっている(例によって、ひらがなが読みにくい部分を漢字に直してある)。

マーニー教は異端視され、グノーシス派ははずかしめられた。教会はこのふたつの宗派に呪いをあびせかけた。けれどもこのふたつの宗派はキリスト教の教義に力をおよぼしていた。このふたつの宗派のシンボルからカトリック教の芸術が発展した。このふたつの宗派の考え方は、キリスト教を信ずる国民の生活全体にしみこんでいった。

マーニー教とグノーシス派とは根本的に見てあまり違ってはいない。善と悪とのふたつの力が争いあっているという原理はこの両派に共通である。

マーニー教は、オールムスつまり光がアリーマンつまり闇と敵対しているという古代ペルシャの宗教からこの原理をうけついだ。

本来のグノーシス派はむしろ、善の力が悪の力よりもさきに存在していたと信じていた。そして悪の力はエオーネンつまり永久的なものが流出して、世代をかさねることによって成立したと説明していた。エオーネンはそのみなもとから遠ざかるにしたがって、しだいににごってわるくなるというのである。

ケリーントスの説によれば我らの世界をつくったものはけっして最高の神ではなくて、その神から流出したエオーネンのひとつ、元来デミウールゴスとよばれるものである。このデミウールゴスはしだいに悪くなり、今では悪の力となって、最高の神から直接に発生した善の力のものであって、神が人間と化してあらわれるとか、肉欲をほろぼしてしまえとか、自己の魂のうちに沈潜せよとかいう教えをともなっている。

キリスト教の思想から出たもっとも清い花とも云うべき、欲望を禁じて静思にふける僧院生活はこのグノーシス派の世界観からうまれたものである。こうしたキリスト教の本来の思想は教義としてはひどく混乱し、また礼拝の作法としてはひどくあいまいにしかあらわれることができなかった。けれども、善悪ふたつの力が争っているという原理はいたるところにあらわれているのが見うけられる。

つまりよいイエス・キリストにわるいサタンが対立している。魂の世界はイエス・キリストが、肉の世界はサタンが代表している。我らの魂はイエス・キリストのものであり、我らの体はサタンのものである。現象の世界そのもの、つまり自然はだから元来悪いものである。

古代宗教の綜合デパート

キリスト教の根幹がユダヤ教とイエスの言行にあることは確かだが、ローマ帝国に公式に受け入れられるまでの数百年の間に、古代オリエント由来の様々な宗教・哲学伝統が取り込まれていったのも間違いない。キリスト教は古代宗教の綜合デパートのようなものなのだ。

キリスト教はその最も重大な思想を、異端として排除したグノーシス主義から受け継いだとハイネはいう。「欲望を禁じて静思にふける僧院生活」、いわゆる禁欲主義(asceticism)である。なぜなら「自然は元来悪いものである」から、人間の善なる魂(神)は欲望を滅しなければ悪なる肉欲(サタン)に勝てないという、仏教とも共通するような考え方だ。

ここで静思と訳されていることばは、おそらく英語のcontemplateに当相当する単語だと思う。このcontemplateは神秘家に親しい概念だ。彼らがウニオ・ミスティカへ至る一連の行動(修行)の中で、最終的にはもはや何も行為せず、ひたすら静かに神と向き合うことになる。その段階をcontemplationというのである。こういう部分にも神秘家のにおいが残っている。

なお、グノーシス主義についても興味深いので別の記事で扱いたい。終戦直後、エジプトのナグ・ハマディという場所で大量の古文書が見つかった。それがグノーシス派の秘匿した文書群だったのである。このナグ・ハマディ写本の登場で研究者は初めてグノーシス主義の全体像をつかめるようになった。それまで資料といえば、異端認定した側の偏った情報(悪口)しかなかったのだから劇的な発見である。

アウグスティヌスのいう真実の宗教とは何か?

後にキリスト教最大の聖人とみなされるアウグスティヌスは、キリスト教への改宗者(convert)で、最初はマニ教徒だった。

そのアウグスティヌスが次のようにいっていることは注目に値する(ルドルフ・シュタイナーの講話「From Jesus to Christ」から引用)。

“That which we now call the Christian Religion already existed among the ancients and was never absent from the beginning of the human race up to the time when Christ appeared in the flesh, from which time forward the true religion which was already there received the name of the Christian Religion.”

「我々がいまキリスト教と称するものは古代よりすでに存在し、人類の創生以来キリストが肉体として出現するまでの間も一度たりと絶えたことはない。そうした真実の宗教を、キリスト出現以降、キリスト教の名で呼ぶようになったに過ぎない」

ここにいう「真実の宗教」とは何か? アウグスティヌスの認識では、いまキリスト教と呼んでいるものは、” already existed among the ancients” なのだから、けっしてオリジナルな宗教ではない。特定の地域に限定されない古代宗教全般を指しているように思われる。

国王の神から善悪相克の世界観へ

有力な古代宗教の多くは、自然崇拝や祖先崇拝の多神世界から、国王の政治権力と直接結びついた体制宗教への移行によって生まれた(祭政一致)。そこでは「国王=祭祀長」であった。

そこに変化が現れたのは、ペルシャ帝国とローマ帝国という二大勢力ができて以来だ。両帝国とも当初はローカル宗教に寛容であったものの、権力基盤を強化すべく次第に国や共同体を超えた、より普遍的な宗教を求めるようになった。キリスト教やゾロアスター教が育ったのはこうした背景の中なのである。

ゾロアスター教を通じたペルシャの影響

バビロンに捕囚され、ペルシャ王キュロスに解放されたヘブライ人は、ゾロアスター教から善悪二元論や終末観、最後の審判とその後の善の勝利(救済)という思想を学び取り、ユダヤ教に取り込んだ。このとき、アフラマズダーとアーリマンは天使とサタン(悪魔)に姿を変え、それがグノーシス主義やキリスト教に引き継がれていった。

秘儀宗教の隆盛

しかしキリスト教の神はひとりしかいない。神の捉え方が抜き差しならない対立となりやすい。対象はひとつしかないのだから、どうしてもAは正しく、BやCは間違っているという風になる。部族宗教や国家宗教の時代なら、BやCにも引っ越し先があったかもしれないが、唯一神教では逃げ場はない。政治力の強い者の信仰が公式化し、それ以外の者たちの信仰は秘儀化せざるを得ない。

ユダヤ教神秘思想カバラの生命の樹イメージ(出典:https://kabbalah.astrologyclub.org/)

そうした秘儀宗教は、アウグスティヌスのいう「真実の宗教」のうちキリスト教から零れ落ちたものへの信仰と捉えた方が実態に近いだろう。そして秘儀宗教は、文化の第二層を形成する神秘思想の大きな柱になっていくのである。

実際、キリスト教がまだone of themであった時代、ローマ帝国治下では主なものだけで、次のような秘儀宗教や異端思想が人気を博していた。

  • グノーシス主義(キリスト教の異端とされたのは西方グノーシス主義)
  • マニ教(ペルシャ系、東方グノーシス主義とも)
  • ミトラ教(ペルシャ→小アジア系)
  • キュベレー崇拝(小アジア系)
  • エレウシス祭儀(ギリシャ系)
  • ディオニソス祭儀(ギリシャ系)
  • オルフェウス教(ギリシャ系)
  • オシリス・イシス秘儀、セラピス秘儀(エジプト系)
  • ヘルメス思想(ギリシャ系)
  • 新プラトン主義(エジプト・アレクサンドリア)
  • 宗教ではないが、関連して占星術(メソポタミア)、数秘術、錬金術など

公理化できない神秘体験の排除

秘儀宗教などの神秘思想の根幹はウニオ・ミスティカ(unio mystica)と呼ばれる神と人との霊的合一である。しかし、カトリック教会が公共の教理によって世上の権威を確立する際、そのような公理化しえない神秘体験は排除されざるを得なかった。

キリスト教の公式教義が採択されたのは、イエスは人であり神の子ではないとするアリウスの主張をめぐってAD325年に開かれたニカイア公会議(Councils of Nicaea)だった。この会議は左派、右派、中間派の間でイエスの扱いをめぐって激論が重ねられたが、最終的に左派アリウスの主張は退けられ、右派アタナシウスの「イエスは父なる神と同質(ホモウシオス)」とする主張が採択され、ニカイア信条となった。

敗れたアリウス派はこの後、ローマ帝国外にいたゲルマン人への布教に邁進し、ゲルマン世界に神秘思想が浸透するきっかけをつくった。皮肉なことに、ゲルマン人が初めて触れたキリスト教は「異端」だったのである。

アリウス派の東ゴート族(ゲルマン系)テオドリクス王が、AD6世紀はじめラヴェンナに建てた礼拝堂内部のモザイク画(出典:http://www.heritage-route.eu)。

神秘的なものが生まれ地下に潜んだわけ

神秘家(秘儀参入者)の理想は、地上におけるウニオ・ミスティカである。そこにはユダヤ教に染みついた原罪感はなく、神秘家は基本的に性善説に立つ。彼らは純粋に神との合一化による不死(永生)願望を実現しようとする。仏教で解脱と呼ぶ境地に似ているかもしれない。

不死願望は神秘家のみならず、王にも平民にも等しくある。しかしオフィシャルな宗教は基本的に支配者のものであり、それ以外の人間の願望を満たしてくれない。宗教には公私の二面性があり、キリスト教以前の宗教は個人を救済するものではなかったからだ。

秘儀宗教は霊的に餓えた個人のこころに生まれたと思われる。エジプトで一部の一神教(アテン崇拝)かぶれが「こっそり」始めただの、いやバビロンで悪魔崇拝の連中がルシファーを拝んだのが始めだの、いろいろ詮索は尽きないのだが、根っこにある動機は個人の救済願望だろう。その場合、古代では王様に隠れて「こっそり」とやるしかなかったのである。

キリスト教の画期性

個人の救済というニーズをすくい上げ、秘儀宗教の伝統を呑み込んだのがキリスト教である。イエスはエッセネ派と呼ばれるユダヤ教少数派閥に属していたとされるが、以下の記述を読むと、さもありなんである。

死海の北西沿岸に共同生活を形成していた。派としての規模は小さく,会員はおもに農耕を中心として,厳格,敬虔な宗教生活を営んでいた。当時には珍しく,奴隷制を否定し,みずからの労働によって生活の糧を得,それを共有するという共産社会を形成していた。

後の修道院を見るようではないか。その禁欲的なイエスが地上で数々のサクラメントを為し、ローマの役人に抵抗するでもなく磔にかかり、3日後に復活(Resurrection)する。必ずしも霊的な意味ではなく、聖書はイエスが肉体として蘇ったことを強調している。

霊的勝利という思想

この物理的抵抗に訴えない勝利(霊的勝利)という価値観の提示は、平民にとって画期的なものだった。それは今生がダメでも「死後なら浮かばれる」という人生観を提示する。この世で戦い成功するという人生観の転換を迫るものだったからだ。いわば幸福の保留だ。

しかも最後の審判(Last Judgement)とヨハネ黙示録を通じた救済(Salvation)ストーリーによって死後には千年王国が待っているというのだ。

メシア(救世主)思想自体はユダヤ教にもあったが(ユダヤ教がペルシャから借用したという説もあるが)、イエスの復活という事蹟によって救済の意味は質的に変化した。観念上の絵空事が地上の現実になったのだから。近代神智学の大物思想家ルドルフ・シュタイナーが「ゴルゴタの秘蹟」と呼ぶ、この瞬間こそキリスト教最大の発明だったといえるかもしれない。その衝撃の余波がパウロという天才的伝道者を呼び込み、教義に磨きがかかり(ある意味、文学化され)、キリスト教はローマにおいて諸宗教の覇者に登りつめる。

物理的抵抗を要しない霊的勝利、禁欲生活を通じた奉仕と天国での永生・・・意地悪くいえば、これほど権力者にとって都合のいい教えはないだろう。神の名の下に好き勝手ができる!

その意味で、キリスト教とは古代社会の諸要素が帝国下に糾合された状況で、人類の “政治” 的要請がつくりあげた宗教である。それはけっして秘儀宗教の否定ではなく、むしろ統合昇華バージョンなのだといえる。

なぜキリスト教は秘儀要素を排除したのか?

したがって世界宗教たるべく運命づけられたキリスト教は、以下の理由で神秘的・秘儀的要素を表面から拭い去った。

  • イエス以前の神秘思想をそのまま採用すれば、秘儀性が残り過ぎて信者が広がらない。またイエスの復活を軽視することになる。人間が(イエスではなく)秘儀によって救われれるのであれば、イエスは何のために地上へ降りたのか?それは万人を救うためではないのか?秘儀はサークル内の者しか救わない。狭すぎるのである。
  • 復活という啓示によって伝統的秘儀が不要になった(復活こそ秘儀宗教の集大成といえるパフォーマンスだ)。復活を信者獲得の “目玉商品”(現世利益)とする以上、秘儀のことなど一部の者がわかっていれば済むことで、信者拡大には邪魔になる。

以上をまとめれば、秘儀伝統の集大成であるキリスト教は “政治的理由” から万人救済を前面に掲げた。そのとき、精神的バックボーンである神秘思想・秘儀宗教の伝統は “表向き” 排除された。地下に潜った神秘思想・秘儀宗教は様々なチャンネルを通じて異教徒の世界だったヨーロッパや東方世界へ浸透していく。自然科学でさえ、この伝統がなければ発達しなかったのである。

この辺りの間口の広さ、懐の広さにこそキリスト教の深謀遠慮があり、その偉大な普遍性があると評価しなければならないだろう。