【文化の重層性03】ヨハネ書とロゴス導入による思想革命

2018-05-29宗教, 文明文化の話, 歴史

(アイキャッチ画像出典:https://www.redletterchristians.org/mislabeling-the-word-of-god/)

ミュトスの世界観から生まれ、人間に合理性・論理という認識ツールを与えたロゴスは、キリスト教と出会うことでさらに威力を強めていく。この辺の事情について掘り下げてみよう。

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ロゴスの原義

ロゴスのいちばん基本の意味は “I say” だという。発語という意味だ。これは頷けるだろう。どの言語においても、まず音があり、次に文字が来る。

ギリシャ語は、英語同様、印欧祖語族(Proto Indo-European language family)の分派だから、ギリシャ人とイギリス人の人種的ルーツは共通している。元は南ロシア(コーカサス山脈北方)の平原で活動していた遊牧民だ。おそらく気候変動の関係で移住を開始したといわれている。

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現在有力なクルガン仮説によるインド・ヨーロッパ語族の移動経路(出典:wikipedia commons)

この印欧語族のうち東へ向かった人々がイラン人とインド人になり、西へ行った人々がギリシャ人、ローマ人、スラブ人、ゲルマン人、ケルト人などのいわゆる欧州人になった。

原始キリスト教とコイネー・ギリシャ語

ギリシャ人を含む西方へ移動した印欧語族はヨーロッパ大陸やバルカン半島、小アジア、地中海沿岸などに進出した。彼らはメソポタミア地方やエジプトに先進文明を築いていたセム語族とは民族的に異なる集団である。

両者は古くから交流があったと思われるが、文化的交渉が強まったのはアレクサンドロス大王がペルシャやインドを侵略し、一大帝国を建設して後である。

とくにキリスト教が生まれた時代の東地中海世界はすでにローマ帝国の支配下にあったものの、文化的にはギリシャの影響が強く、コイネー・ギリシャ語(Koine Greek)と呼ばれる古代ギリシャ語が共通語になっていた。とくにアレクサンドロス大王がエジプトに建設したアレクサンドリアは国際都市として交易のみならず学問や宗教の中心となり、そこに暮らすエジプト人やヘブライ人の多くはギリシャ語を操り、後に教父(Church Fathers)と呼ばれる著述家や神学者を輩出した。

ヘブライ世界で生まれたキリスト教なのに、新約聖書がコイネー・ギリシャ語で書かれたのはこうした背景があったからである。

原始キリスト教時代の地中海世界(出典:世界の歴史まっぷ)

ヘブライ的神概念のヘレニズム化

こうしたヘレニズム(Hellenism)がヘブライ世界に与えた決定的影響の象徴が、ヨハネ福音書の冒頭を飾る、

はじめにことばがあった。言葉は神とともにあった。ことばは神であった。(In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.)

という強烈なステートメントである。ここで「ことば」と訳されているギリシャ原語がロゴスなのである。ヨハネは、このロゴスを通じて、ギリシャ由来の「理性」「論理」「真理」などの人間的な諸概念を、イエスというヘブライの神格に接合した。そして、この瞬間からロゴスは単なる人間の合理性を超えて、神と一体化した聖なることば(The Divine Word)になった。英語版wikipediaの説明にもこうある。

Logos (Christianity); according to the Gospel of John, Jesus Christ Jesus is the Word of God. Before Jesus was incarnated into human history, he existed as the Divine Word, the second person in God, the Logos.

このようにロゴスというギリシャ発の概念は、イエス(キリスト教会)を通じて、ヨーロッパの知識階級に深く食い込み、彼らの思考の枠組みを形成していったのである。

ヨハネによるロゴスの特権化

「はじめにことばがあった」(”In the beginning was the Word.”)という口上は、創世記冒頭の天地創造(”In the beginning God created the heavens and the earth.”)を踏襲しているが、ここで意図されているのは、ことば(ロゴス)の特権化である。

  • ことばの神聖化と人間存在の特権化
    天地創造の「はじめに」すでに「ことばがあった」。ことばは天地とともに最初からあったということだ。だから次に「ことばは神とともにあった」と続くのである。三番目の「ことばは神であった」とは「ことば」が神と一心同体であり、切り離せない本質であることを示す。人間は神の姿を見られないが、このように神聖な「ことば」を与えられた以上、他の被造物と同格ではありえない。
  • 建前上は神と矛盾しない合理的行動の正当化
    このステートメントは後の三位一体論(The Christian Doctrine of Trinity)の重大な根拠となる。イエスは神の「ことば」であり、神は神意を伝えるために、イエスを遣わしたことになったのである。イエスを信じるといことはイエスを通じてロゴスを信じるということだ。ここでギリシャ的な参照の枠組み(frame of reference)がものをいい、「合理」「論理」「真理」を探求することがそのままイエスに、ひいては神の意に奉仕するという理屈が成立していく。
  • 不可避的な文化の重層性
    しかし一方で、イエスが「肉体存在であってロゴスである」という矛盾(非科学的な真実)を抱えこむことになる。合理を志向する根っこに非合理な信仰があるので、西洋文化は重層的にならざるをえなくなったのである。そして格下げされたはずのミュトスが密かに蘇り、神秘思想や錬金術の流れとして裏からキリスト教世界を支えることになる。
  • グローバリズム思想(拡張主義)の萌芽
    ロゴス賛美(ヨハネ書第1章前半はそう呼ばれる)の思想は、旧約聖書に刻印されているヘブライ人の部族性の強い世界観を超え出ている。なぜなら、ヘブライ的世界観においては、神の「ことば」(たとえばモーゼの十戒)は一方的に天から降ってくるもので絶対服従するしかない。この世界には論証不能な「真実」はあっても、「理性」や「論理」でその妥当性を云々する余地はない。
  • 文化混淆に起因するダブルスタンダードの恒常化
    逆にいえば、ヨハネ書のロゴスが、神の世界にギリシャ的合理主義を持ち込み、ヨーロッパに対して、神と理性(合理)が対等に競い合う方向づけがなされたのである。

このようにヘブライ思想(キリスト教思想)はヘレニズム(ギリシャ思想)の洗礼を受けて質的な転換を迫られたのだが、では、それがどのような転換だったのかについては英文記事で紹介しよう。

ギリシャがつくった理性の王国

What we are going to do is examine how much of the Hellenized world was influenced by the Greek concept of logos. To do that, we need some historical and philosophical background.

ヘレニズムの洗礼に晒された世界がいかに深くロゴス思想に影響されたかを検討したい。まず歴史的、哲学的背景から見ていこう。

In Greek thought logos is not about a person. It’s about abstract principles that claim to apply to all men everywhere. This is a monumental shift in the history of human thought.

Before the Greeks, humanity was interested in territorial gods and customs, in tribal paradigms, because men lived within the confines of tribal societies. Even if those territories became the size of Assyria, the philosophy of tribalism predominated. Men worshiped local gods, lived according to local customs and thought of the world in terms of territorial ideas.

We see this even in the Genesis accounts where Jacob, after experiencing the vision of the “ladder,” remarks that he couldn’t imagine God was in this place. Why couldn’t he image that? Because his God, YHVH, was a tribal God and therefore, geographically confined.

ギリシャ思想においてロゴスとは人間そのものに関する思想ではない。この世界には目に見えない法則が働いていて、それはあらゆる人間に当てはまるという主張である。これは人類の思想史において画期的な転換であった。

ギリシャ以前の人間は部族社会に生きていたたから、その思考は部族の枠に閉ざされていた。彼らの関心は自分の土地の神、土地の習慣にしか向かわない。アッシリア帝国くらい領土が広がっても、この閉鎖性に変化はなかった。彼らが拝むのはローカルな神であり、彼らの習慣や世界観はすべて部族の枠組みを外れなかった。

創世記で梯子の夢を見たヤコブでさえ、「主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」といっている。なぜか?彼の神YHVH(ヤハウェ)は地理的制約を受ける部族神だったからだ。

ヤコブの梯子(Jacob’s ladder)
ヤコブはイスラエルの民、すなわちユダヤ人の祖。
wikipediaによれば「ヤコブは双子の兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得たため、兄から命を狙われることになって逃亡する。逃亡の途上、天国に上る階段の夢(ヤコブの梯子)を見て、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。ハランにすむ伯父ラバンのもとに身を寄せ、やがて財産を築いて独立する。」
創世記28章12節:そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
創世記28章16-17節:ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

With the discovery of the idea of logos, the world was transformed. Local cultures were turned into ideologies claiming universal authority and application. And because logos was the paradigm of human thought, conceptual knowledge became independent of revelation. In other words, following Greek philosophy, understanding the true principles that governed the universe was available to all men with enlightened intellect.

そこへロゴスという考えが発明されると世界は別のものに変わった。文化の局所性は否定され、代わりに普遍性と正統性が主張され始めた。ロゴスは人間の脳の枠組みだから、ロゴスが与える概念や知識は神の啓示とは切り離しことができた。ギリシャ哲学に啓発された者なら、誰でも宇宙を司る法則を理解できるようになるのである。

理性至上主義と宗教権威の失墜

Logos usurped the role of the priest and the prophet. (中略) The Greeks enthroned reason with the discovery of logos, and the Western world has never been the same. Today we absorb this Greek idea by cultural osmosis. We don’t consider the fact that for most of human history this ideological view was not the standard, and when we encounter tribalism in the contemporary world, we firmly believe that those who hold such views are in need of education so that they too might enjoy the benefits of rational thinking. We are so far removed from the world of the ancients that we would never consider consulting with a priest or a prophet in order to determine the orbit of Jupiter or any other circumstance in our purview.

ロゴスによって聖職者や預言者の役割はとても小さくなった。(中略)ギリシャ人はロゴスの発見によって理性を王座につけたのだ。西洋世界もその影響で別物に変わった。今日、西洋に生まれた者は文化の浸透作用を通じて自然にこのギリシャ的思考を吸収する。だから、この考え方が人類史においては珍しいという事実を意識しない。そのため現代に生き残っている部族主義に遭遇すると、そうした人間にも文明化教育を施して合理思考の恩恵を与えるべきだと考える。我々にとって古代は遠い昔の世界であって、土星の起動やその他我々を取り囲む環境について聖職者や預言者に尋ねる者はどこにもいない。

自由の称揚

Under the banner of logos, freedom became the highest good of Greek rationalism. However, because the logos is about mental states of the inner man, the idea of freedom does not ultimately reside in the body politic. It is a mental attitude, allowing a man to exercise his mind without concern for the restrictions placed upon his physical existence. Aristotle concludes that to be a good citizen of the polis is to be a moral man, that is, a man of pure reason, of logos, and nothing else.

また合理的なギリシャ人はロゴスの旗を振って自由を最高善に昇格させた。ロゴスは内面のこころの状態を考える技術だから、自由という思想は肉体という縛りに限定されない。物理的制約に規制されることなく、こころを働かせばよい。アリストテレスはポリスの良き市民であろうとするなら道徳的人間たれといった。彼のいう道徳的人間は純粋理性の人、ひとえにロゴスの人を意味している。

プライバシーと個人主義

Logos, then, leads to the invention of individual privacy, the right of each person to be detached from the world of illusion, that is, the world be rifted with illogical appearances.

さらにロゴスはプライバシーの発明に帰結する。各自には、見かけの違いで分裂した幻想の世界とは別の時空に生きる権利があるというのだ。

The detached man is whole in and of himself. He volunteers to become involved in society and social networks. His commitment to community is a choice, not an obligation, even for his own consciousness. In this way, logos provided the grounds for the saying, “Every man in his own castle.” Society became the product of elective choice and therefore it rests on the will of the people, not on the obligations of anyone to human behavior under the auspices of God.

世界から切り離された人間は彼自身で完結し、彼自身で全体である。人間が社会に関与するか、社交を結ぶかは自発意思の問題だ。共同体との関わりは彼が意識するしないに関係なく、任意であって義務ではない。ロゴスが各人に「自分の城」をもつ根拠を与えるのである。かくして社会は人間の選択的意思が生みだすものとなった。神への服従義務ではなく、人々の意思に基礎を置くようになった。

セム的部族(家族)主義とギリシャ的個人主義

All this is in opposition to the Semitic culture, a culture built of moral obligation to care for another regardless of the other’s intellectual agreement. Thus, God can direct His people to provide for the enemy without requiring that the enemy first convert to the tribal view. Today we still see the enormous influence of tribal morality in the Middle Eastern idea of hospitality. It is never optional, unless, of course, you are thinking like a Greek. The smallest building block of society in Semitic thought is the family. In Greek thought it is the individual, and the consequences are enormous.

しかし、これはセム文化とは真反対の考え方であった。セム民族は契約があろうとなかろうと、隣人を気遣う道徳的義務を負っていた。敵が部族の考えを受け入れる前に神はすでに命令をくだしていたからだ。この古代の部族的価値観は、現代中東のもてなしの精神にも大きな影響を及ぼしている。ギリシャ人のように考えない限り、この義務に逆らうという選択肢は存在しえない。セム社会で社会の最小構成単位は家族である。ギリシャ思想では個人である。この違いは甚大であった。

<記事引用終わり>

ニーチェの2000年前に神の死は準備されていた?

いかがだろうか?ギリシャ哲学はロゴスの概念を特権化し、人間を神から自由にした。その瞬間、”神の死” は準備されていたといえないだろうか?

出典:Glory to God for All Things at https://blogs.ancientfaith.com/glory2godforallthings/

理性、合理主義、自由、プライバシー、個人主義・・・こうした現代的価値観はヨハネが意図せずキリスト教に埋め込んだ時限爆弾のようなものだったのではないか。

いまではそこに貨幣愛が加わっている。ギリシャの哲学者は有閑階級で貨幣の問題にはわりと無頓着だったが、現代人はそうもいかない。それにしても、信仰者が “神の死” を準備していたとは何とも皮肉な話である。

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