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【英米論1】プリンシプルで牙を隠すアングロサクソンの才能、それを押し通す政治力

政治・社会, 文明文化の話, 英語の話

19世紀以降はアングロサクソンの時代です。そうなった秘密は何でしょう?

それを探るために、今回から英米論を何度かやってみたいと思います。初回は総論です。英米人、いわゆるアングロサクソンの本性をざっくり見てみたいと思います。イギリス人の何たるかを誰よりも知るのは誰かと言えば、イングランドに引きずり回され、さんざん辛酸をなめさせられたアイルランド人をおいて他にいないでしょう。

そこでアイルランドを代表するジョージ・バーナード・ショウ(George Bernard Shaw)の観察を紹介します。次回以降は、ジョン・ロックの思想やアメリカ宗教史といった違う観点からアングロサクソンを眺めてみたいと思います。

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バーナード・ショウのアングロサクソン観

バーナード・ショウは、以下のwiki解説を斜め読みするだけでも複雑な人格であることがうかがえます。

スコットランド貴族の末裔でダブリンで出生。成人してからはイングランドで生活するベジタリアンで本人は厭世家だったけど94歳の天寿を全う。学歴はないが学識はあった地頭のよい人です。

劇作家としての活動の傍ら、俗物にまみれた「行き過ぎた」資本主義社会を嫌い、「穏やかな」社会主義を志向して(マルクス主義には批判的)、フェビアン協会(Fabian Society)に参加。フェビアン協会はイギリス労働党の母体組織であるとともに、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の設立母体でもあります。

そんなバーナード・ショウの戯曲『運命の人』(The Man of Destiny)には、ナポレオンの科白として見事なアングロサクソン観が披歴されています。

ここでショウはナポレオンの口を借りて、イギリス人は宗教と道徳を建前(原理原則)に使って、本音(私利私欲)を追求すると評しています。客観的・普遍的な原理原則(principle)に照らせば、それに逆らう者をねじ伏せるのは目覚めた人の義務(duty)である、という理屈です。本能的な欲求を追い求めること(=私的動機)がいつの間にか義務(=公的目的)にすり替わっているわけで、これでは行動に移さざるを得ません。

このレトリックにこそアングロサクソンの真骨頂があるのではないでしょうか(なお、以下で太字にした部分はブログ主による強調です)。

道徳的義務?宗教的義務?

But every Englishman is born with a certain miraculous power that makes him master of the world. When he wants a thing, he never tells himself that he wants it. He waits patiently until there comes into his mind, no one knows how, a burning conviction that it is his moral and religious duty to conquer those who have got the thing he wants.

イギリス人は生まれつき世界の主人たるべき不思議な力を持っておる。あるものが欲しくても、それが欲しいとは自分自身にもけっして言わぬ。辛抱強く待つのだ。そのうち、どういうわけか、彼の欲しいものの持ち主を征服することがイギリス人の道徳的宗教的義務であるという燃え立つような確信が彼の心に生じる。

原理原則と行動力

Then he becomes irresistible. Like the aristocrat, he does what pleases him and grabs what he wants: like the shopkeeper, he pursues his purpose with the industry and steadfastness that come from strong religious conviction and deep sense of moral responsibility.

He is never at a loss for an effective moral attitude. As the great champion of freedom and national independence, he conquers and annexes half the world, and calls it Colonization.

そうなるともうイギリス人はじっとしておられぬ。貴族のように好き勝手をし、欲しいものを掴む。小売商人のような勤勉と忍耐を発揮して目的を遂げんとする。すべては強い宗教的確信と深い道徳的責任感に発するのだ。

イギリス人はどんな道徳的態度が効果的か心得ており迷わぬ。自由と国家の独立に関する偉大なる覇者として全世界の半分を征服し従属させ、それを植民と称するのだ。

先取先制の侵略

When he wants a new market for his adulterated Manchester goods, he sends a missionary to teach the natives the gospel of peace. The natives kill the missionary: he flies to arms in defence of Christianity; fights for it; conquers for it; and takes the market as a reward from heaven.

In defence of his island shores, he puts a chaplain on board his ship; nails a flag with a cross on it to his top-gallant mast; and sails to the ends of the earth, sinking, burning and destroying all who dispute the empire of the seas with him.

マンチェスターの粗悪品を売りつける新たな市場が欲しければ、宣教師を派遣して原住民に平和の福音を教えさせる。原住民が宣教師を殺せば、すかさずキリスト教防衛の軍隊を送り出す。そして敵と戦い、敵を征服し、天からの褒美として市場を掴み取るのだ。

自分らの島のぐるりを護るべく、マストのてっぺんに十字架を打ち付けた船に牧師を乗せ、地の果てまで航海に出かける。そして海洋帝国に盾突く者を沈め、焼き払い、破滅させるのだ。

原理原則と現実の矛盾

He boasts that a slave is free the moment his foot touches British soil; and he sells the children of his poor at six years of age to work under the lash in his factories for sixteen hours a day.

「我が国に足を踏み入れるや奴隷でさえ自由になる」と自慢しながら、自分らの貧民の子どもを6歳で工場に売り払い、毎日16時間鞭打ちながら働かせる。

He makes two revolutions, and then declares war on our one in the name of law and order. There is nothing so bad or so good that you will not find Englishmen doing it; but you will never find an Englishman in the wrong.

イギリスはすでに二度革命を経験し、法と秩序の名の下、我が国に宣戦布告しおった。善行悪行を問わずイギリス人が手をつけていない物事は皆無だ。イギリス人が何事につけしくじった物事もまた皆無だ。

義務による原則の正当化

He does everything on principle. He fights you on patriotic principles; he robs you on business principles; he enslaves you on imperial principles; he bullies you on manly principles; he supports his king on loyal principles, and cuts off his king’s head on republican principles. His watchword is always duty; and he never forgets that the nation which lets its duty get on the opposite side to its interest is lost.

イギリス人は万事、原理原則で事に当たる。戦いに際しては愛国の原理、盗みに際しては商売の原理、奴隷の調達に際しては帝国の原理、いじめに際しては男の原理と使い分ける。忠誠の原理で王に仕え、共和政の原理で王の首を刎ねる。合言葉は義務。人民の利益に義務を引き渡せば国家は敗れ去るー、そのことをイギリス人はけっして忘れておらんのだ。

<引用終わり>

近衛文麿の炯眼

以上の一節は、若き近衛文麿が1918年に書いた有名な論文『英米本位の平和を排す』で取り上げています。

当時の日本は欧米人主導の世界に強い違和感と不満を感じ、翌1919年のパリ講和会議には人種差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)を提出しています。いまより数段露骨な人種差別を受けていたに違いありません。

日本の提案は絶対多数を得たにもかかわらず、オーストラリアの強硬な反対を受け、米ウィルソン大統領の一存で否決されてしまいます。多数決の原則を踏みにじり、このときに限って全会一致の原則を持ちだしてくるところなど、アングロサクソンの「万事、原理原則で事に当たる」スタンスがよく表れているではありませんか。

認識と行動のギャップ

この事件以降、日本人の対アングロサクソン感情は悪化の一途をたどり、とうとう太平洋戦争に至ってしまいました。後年の近衛文麿は戦争をダラダラやめられなかった優柔不断な首相という酷評を受けています。ですが少なくてもこの時点では白人クラブの本性をよく見抜いています。正しい認識が必ずしも正しい行動に結びつかない好例なのかもしれません。

現代日本人への教訓

ブログ主は英語熱に浮かれるいまの日本が第二の近衛文麿、つまり正しい認識を正しい行動に移せない国にならなければいいが、と危惧しています。大方の日本人があまりに素直でお人好しに見えるからです。いったいそれはいつからなのでしょう?祖国を否定され物心両面で骨抜きにされた戦後から?

いや、戦前も大差なかったようです。実際、近衛は『英米本位の平和を排す』で次のように言っています。

吾人は我国近時の論壇が英米政治家の花々しき宣言に魅了せられて、彼等の所謂民主主義人道主義の背後に潜める多くの自覚せざる又は自覚せる利己主義を洞察し得ず、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件的無批判的に英米本位の国際聯盟を謳歌し、却つて之を以て正義人道に合すと考えふるが如き趣あるを見て甚だ陋態[ろうたい]なりと信じるものなり。

ここで言われている「彼等の所謂民主主義人道主義」こそ、バーナード・ショウのいうアングロサクソンお得意のプリンシプルであり、野獣のような本音をオブラートにくるむ高等戦術なのです。特にこの時代のウィルソン大統領という人物は元祖お花畑とでも呼びたくなるトンデモ宰相でした。

それなのに「無条件、無批判に英米本位の国際連盟の風潮を謳歌し、それが正義人道に合すと考える」日本人よ、しっかりしてくれ!というのが近衛の心の叫びだったのです。どうして結果だけ見てこの時の近衛の炯眼まで責められるでしょうか?

もう少し、わかりやすく言い換えましょう。上の「国際連盟」の部分を、当今流行りの「グローバル経済」「国際協調」「リベラル」「社会正義」などと置き換えてください。誰にも文句が言えないような空気が〇〇〇〇のまわりに醸し出されていることにお気づきでしょう。それこそがアングロサクソンの牙を隠すぬいぐるみなのです。彼らは彼ら(とそれと結託するユダヤ勢力)の天下をずっと続けたいだけで人類愛など毛ほども持ち合わせていません。現在から過去に至る彼らの悪逆非道ぶりと、それを反省も謝罪もしない態度にそれは明白です。

アングロサクソンの政治力と神様の担保

ところが、あまりに見事な綺麗ごと、美しく科学的にさえ見えるプリンシプルを呪文のように聞かされ続けていると、やがてそれを信じる人が増えてきます。そしてアングロサクソンの「多くの自覚せざる又は自覚せる利己主義」はいつしか意識されなくなっていき、数学の定理のように動かせないものに感じられるようになります。これがアングロサクソンの政治力なんです。

そしてもうひとつ注意。このアングロサクソン流のロジックには隠れ主人公がいます。そう、神様です。彼らの宗教的義務、道徳的義務、義務などという大風呂敷を保証してくれるのは他の民族でしょうか?ありえません。神様しかいませんよね。この無意識に置かれた神という担保を通じて、アングロサクソンは彼らの欲求の正当性(ないしは必然性)を訴えているわけです。

どうかくれぐれもご用心を。

 

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