【政治・社会】ソーシャルジャスティスは唯物論的世俗化の表れ

政治・社会, 文明文化の話

前回、ユリウス・エヴォラにかこつけて社会正義の疑似宗教性について論じた。

今回は、そもそも社会正義(social justice)という思想はどこから来たのかについて考えてみたい。実はカトリックの坊さんから来ているのである。その意味は社会主義者によってねじまげられ現代に流布された。

実は、現代ほど共産思想・社会主義思想が全世界的な猛威を振るっている時代はないのである。資本主義vs共産主義の対立図式は悪質なデマである。共産主義は崩壊も壊滅もしていない。戦略を変えただけだ。共産主義に代表される唯物史観は様々な巧妙な偽装のもとにいまも人間の頭を赤色に染め上げている。

(出典: https://quotefancy.com)

唯物論的世界観の侵食

社会正義は、いまや世界中を覆いつくす唯物論的世界観(materialistic view)のほんのひとつの表れに過ぎない。次に示す表を見てほしい。みなさんやブログ主を取り巻く現代社会が、いかに、右の列の唯物論的価値観に侵食されているかわかるはずだ。

保守派と進歩派の世界観の違いJudeo-Christian Theism
ユダヤ・キリスト教的有神論
Atheistic-Materialism
唯物論的無神論
The Universe
宇宙観
Open System
開放系、神は宇宙外の超越存在
Closed System
閉鎖系、単なる物理的空間
Human Beings
人間観
Iimago Dei
神の似姿に作られし被造物
Mouths to feed
食いぶち(扶養者と被扶養者)
Resources
資源観
Product of human imagination
人間の想像の産物
Physical things in the ground
地上・地下の物質
Economics
経済観
Positive Sum
ポジティブサム(win-win)
Zero Sum
ゼロサム(win-lose)
Nature of equality
平等観
Equal before the law
法の下の平等
Equal outcomes
結果の平等
Solving poverty
貧困対策
Create wealth
富の創出
Redistribute scarce resources
限定資源の再配分
Government
統治
Internal self government; the state is responsible to free citizens.
自律的統治、政府は自由市民に責任を有する
The state must be large enough to force its will on the people
大きな政府として国家意思を国民に強制
Property
所有権
Private
私有
Belongs to the state
国有
Social Justice
社会正義
Personal and public flourishing
個人・公共の繁栄
Material equality
物質的平等
Operating Principle
統治原理
Freedom
自由
Tyranny
専制
Poor People
貧者とは?
Individuals in the community
共同体内の個人
A class that only a large government can help
大きな政府が救済するしかない階級

(出典: http://darrowmillerandfriends.com/2012/02/23/why-so-much-heat-about-social-justice-part-2/)

神罰?

こうした事態は神を捨て徹底的な世俗化を選んだ人間に突きつけられた試練といえるだろう。本来、ユダヤ・キリスト教的な伝統とは無縁の日本社会も例外ではない。明治維新で近代化を進めてからというものの、日本も唯物論的世界観の侵食に晒され続けている。マルクス主義者だ、コミュニストだ、ネトウヨだ、パヨクだ、そういう党派の次元とは異なる、もっと本源的な次元の話なのだ。

現在世間を騒がせているLGBT云々も同じだ。差別意識とか社会的ハンデとか、そういうことより、本当は「このまま唯物論でいいんですか?」という基本的なことが問題にされるべきなのである。

いまの日本に保守などいない。本人が保守を任じる任じないに関わりなく、伝統的な意味での保守は一人もいない。みんな何某かの意味で左翼なのである。近代化=左翼化なのだから当たり前だ。それが愛国心とは無関係に、日本人を規定している生存条件というべきものだ。

このままで本当にいいんですか?

ブログ主が鼻白む思いをするのは、こうした本源的な次元の議論がどこからも一向に湧いてこないからである。そして、当サイトで宗教を殊更扱うのも、宗教とはそんなに簡単に捨て去ったり忘れ去ったりできる代物でなく、人間の精神や文化を深く規定しているからである。

世界に視野を転じても同じだ。ソ連が崩壊したから、アメリカが勝ったというのはウソであり、ヨーロッパが勝ったというのもウソである。彼らは教会に行く代わりに集会に参加し、デモに出かける。まさに「結果の平等」に突き動かされるSJW(Social Justice Warrior、日本でいうプロ市民)の群れではないか?

唯物論的な世界観は、学校を通じて、自然科学の人間理解を通じて、メディアを通じて、人々の習慣を通じて、様々な偽装を凝らしながら日々社会を蝕んでいる。

人間は神を失うと唯物論に行くしかない。「それで本当にいいんですか?」という話である。

近代的社会正義の起源

「Luigi Taparelli D'Azeglio」の画像検索結果現代につながる社会正義(social justice)という概念を最初に打ち出したのはカトリック教の坊さんである。名をルイジ・タパレッリ・ダツェリオ(Luigi Taparelli D’Azeglio)という。

社会正義はけっして社会主義者や共産主義者が創出した概念ではない。彼らはカトリックのタームを剽窃し、作り替えただけである。

急速な都市化に対するタパレッリの問題意識

タパレッリの問題意識は産業革命による農村から都市への急速な人口流出と、それによる農村伝統、家族伝統の崩壊への危機感に根差していた。以下の記事を引用しながら進めよう。

Taparelli wasn’t clear what he was looking for, but he was clear about the problems, some of which I’ve outlined to you: the movement away from the country to the cities, moving away from the family food supply, becoming wage-dependent, family members going to work in different locations. The strain on the family was enormous.

タパレッリはどんな解決があるかはわからなかったが、何が問題かははっきり認識していた。田舎から都会へ人口が流出すると、流失した家族の成員は、それまでの自給自足的な食生活から離れ、給与に依存するようになる。それで家族に深刻なしわ寄せが及んだ。

レオ13世の回勅

「レオ13世」の画像検索結果このタパレッリの危機意識を引き継いだのが、ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)である。

彼は “Rerum Novarum” (新しき事柄について→新事態について)という回勅(encyclical: a letter to the whole world)を発表した(なぜ、世界への手紙なのかといえば、南北アメリカ大陸の発展により、カトリックがヨーロッパだけを相手にしていれば済む時代は終わっていたからだ)。

カトリック教会が社会問題の解決に向け公式メッセージを発したのはレオ13世が初めてである。そのくらい事態は切迫感をもって捉えられていた。なぜなら、家族こそカトリック教会の存立基盤(現代政治でいうなら、票田)だからだ。レオ13世が問題視したのが他ならぬ社会主義者だった。

“Rerum Novarum” には次のようにある。

Therefore, let it be laid down in the first place that in civil society, the lowest cannot be made equal with the highest. Socialists, of course, agitate the contrary, but all struggling against nature is in vain. There are truly very great and very many natural differences among men. Neither the talents nor the skill nor the health nor the capacities of all are the same, and unequal fortune follows of itself upon necessary inequality in respect to these endowments.

そもそも、市民社会では最下層と最上層を平等にすることはできないことを認識しなければならない。社会主義者は逆のことを唱えるが、自然の摂理に抗しても無駄である。個々の人間の間にはもって生まれた大きな違いがある。才能、スキル、健康、体力などみな違う。財産の不平等は、このような素質の不平等によって必然的に生じたものである。

Such inequality is far from being disadvantageous either to individuals or to the community. Social and public life can only be maintained by means of various kinds of capacity for business and the playing of many parts; and each man, as a rule, chooses the part which suits his own peculiar domestic condition.

かかる不平等は個人にも社会にも有害とはいえない。社会生活(公共生活)は様々な職能によって維持される。それは各人が己の職分を果たすことによって可能となる。原則として個々人はその財政状況に応じた職分を全うするのである。

財政状況に応じた職分とは、要するに財産をもたない者はもたないなりの職をみつけ、財産を増やす以外ないということだ。死すべき存在である人間が私有財産を保証されることは重要だが(そうでなければ彼は不安で仕方がない)、それは社会主義者のいうような、人間は生まれながらに平等だから誰にでも平等に社会の富を分け与えるべきだ、という発想とは異なる。

equityとégalitéの違い

才能や職分に応じた報酬を受け取れる機会を与えることと、生まれながらにすべての人間に同じ権利を保証することの間には大きな飛躍がある。実は、この違いが社会正義思想を考えるうえでの肝なのだ。

記事の著者Michael Novakは次のように解説している。

In English, equality usually suggests fairness, equity, or the equitable; but what is equitable is often not to give people the same portions, but rather to give what is proportionate to the efforts of each.

In European languages, most thinkers followed the model of the French term égalitéÉgalité means the “equals sign,” égal. “This” on one side is equal to “that” on the other side. Égalité is a quite different notion from the English “equitable.”(中略)

In brief, shifting to the French égalité changes the entire meaning of equality from equity or fairness to arithmetical uniformity.

英語でequalityは公平性(fairness)あるいは衡平性(equity、the equitable)を意味するが、衡平は人々に同じ分け前を与えることではなく、それぞれの労力に応じて比例的に配分するという意味である。

ヨーロッパ語圏の思想家たちは、このequity(衡平)をフランス革命由来のégalitéの概念モデルで理解しようとする。égalitéは等号(イコールサイン)のことであり、一方のこれと他方のあれが同じだということを前提とする。英語のequitableとは異なる概念なのである。(中略)

要するに、フランス語のégalité概念をベースに平等(equality)が考えられるようになって以来、公平(fairness)や衡平(equity)の概念は、一律数値化できる平等にすり替わったのである。

つまり、カトリック神父の伝統的な考えでは、個人間の自然的な差異は公平や衡平(いわば人間の法意識)で調整できるのだが、これがフランス革命以降の左翼思想では、ひとしなみに誰もが同じ分け前にあずかる権利があるという風に置き換わったわけだ。そこでは才能や努力は数値に還元され、評定される。公正や衡平のバランス感覚は意味をもたない過去の遺物というわけだ。

わかりやすくいえば、こういうことだ。頑張った人には頑張った分だけ報いる社会は健全だが、ナマポを受ける必要もないのにナマポを受け取れる社会は健全とはいえない(本当に困窮する事情を抱えた人のみが受け取るべき)。ブログ主はそう考えるが、社会正義論者はそうは考えない。ナマポは誰でも等しく受け取る権利があるというのである。この権利というのが彼らのフェイバリットワードだ。

equityとeqaulityについて
equityということばはわかりにくい。法律用語でもあり、株式のことも意味する。衡平と訳されることが多く、益々わかりづらい。しかし原義は「衡」の字でわかるように「釣り合い」のことだ。
たとえば、社会がA+B=Cという等式で表されるとしよう。Cは社会全体、AとBは市民である。いま、社会にはイチゴ2パックと豚肉2パックの財産がある。これを分かち合おうというとき、唯物論的平等論はequalityを至上命題とするから、イチゴと豚肉を1パックずつ市民Aと市民Bに与えることが正義と考える。
ところが、市民Aはイチゴが嫌いで市民Bは豚肉より鶏肉が好きだ。両者が話し合って市民Aが豚肉2パックを受け取り、市民Bがイチゴ2パックを受け取ることで合意した。値段的にはイチゴが1300円、豚肉が1000円なのだが、彼らはそれで構わないという。これが釣り合う、衡平の論理である。質的に正義は達成されたわけだ。
果たしてどちらがハッピーな社会だろうか?

自然的差異

現代の社会正義思想がどんなに哲学や社会思想を偽装しようと胡散臭いのは、その本性がこのような唯物論的発想で満たされているからだ。先ほどの表の社会正義の項を思い出してほしい。

伝統社会では「個人・公共の繁栄」、すなわち両者の衡平なる発展が正義であるのに対して、唯物論にまみれた現代社会では「物資的平等」が正義なのである。つまり全員が(個々の能力や努力とは無関係に、とにかく)物質的に満たされる社会がハッピーな理想社会なのである。

同じ唯物論的発想はLGBTの議論にも露出している。LGBTとそうでない者は自然が生みだした差異である。社会が実現すべきは偏見や差別感情の払拭も含め、彼らの衡平な扱いである。カミングアウトして表立って活躍したい人もいれば、いや静かに暮らさせてくれという人もいるだろう。両者の生き方をともに認めるのが衡平な社会である。

しかし昨今のLGBT論者は、とにかくLGBTもそうでない者も無条件に平等に扱えという。衡平な扱いもへったくれもない。とにかく、LGBTにLGBTでない者と同じ権利を与えろの一点張りである。自然的差異は人為的になくせないから自然的差異なのである。そうした質的な差異を “数値” のような量的差異として考えることで、そうでない者とイコールサインで結べというのだ。

本当にそれがLGBT当事者の望む社会なのだろうか?