【西洋倫理学2】量子力学的世界観の到来とヴィルトゥス:潜在力あるいは欲望としての世界
本稿は以下の記事のフォローアップである。
【西洋倫理学1】ヴィルトゥスの変遷に見る「力」と「徳」の伝統
“virtual” は “virtue” から派生したことばだ。これを頼りに “virtus” についての考察を深めたい。量子力学の登場によっても人間存在の本質は変わらないかもしれない。
“virtual” の意味
日本では “virtual reality” を「仮想現実」と訳したため、cryptocurrency まで virtual currency の一種だという連想で「仮想通貨」として定着してしまった。正確を期するなら「暗号通貨」と訳すべきだったのだが、どうも「暗号」という語の後ろ暗い響きが敬遠されたようだ。
“virtual” は「事実上の」「○○同然の」という意味だ。「仮想の」はむしろ “imaginary” や “hypothetical” の訳語である。この違いは以下の2つを比べてもらえばわかると思う。
Kate is an imaginary lover of mine.
Kate may not be my girlfriend, but a virtual lover of mine.
上の文では、ケイトがわたしの恋人だという事実は存在しない。だから訳せば
ケイトはわたしの想像上の恋人である(想像の中でケイトはわたしの恋人である)。
という風になる。ところが下の文では、ケイトがわたしの恋人だという事実が存在しないとは言い切れない。だから訳せば
ケイトはわたしのガールフレンドじゃないけど、恋人も同然である。(※あちらでガールフレンドといえばsteadyな恋人のこと)
となる。”imaginary” が白黒の白だとすれば、”virtual” は「友だち以上恋人未満」のグレーゾーンである。数学的に表現すれば、”imaginary” は「≠」(恋人でない)、”virtual” は「≒」(ほぼ恋人)である。
だから、”virtual reality” は「ほぼ現実」「現実同然」「事実上の現実」であり、”virtual currency” は「ほぼ通貨」「通貨同然」「事実上の通貨」である。
バーチャル・リアリティ
いまバーチャル・リアリティ(VR)といえば、3Dを体験するために頭にかぶるヘッドセットや、下の写真のような特殊な映写室の光景を思い浮かべる人が多いのではないか。あたかもリアルであるかのように見えたり感じられたりする疑似現実の世界だ。
このようにプロジェクションによって疑似現実を作り出すという発想は、すでに15世紀のイタリアに存在した。
ジョバンニ・フォンタナのマジック・ランタン
以下の記事に書かれていることだが、ジョバンニ・フォンタナ(Giovanni de Fontana)というヴェネチアのエンジニアが、現在のCAVE(Cave automatic virtual environment)と呼ばれる没入型仮想現実体験装置(a VR device enabled by Immersive Projection Technology)の原型的アイデアを創出していたのである。
具体的には、フォンタナは次のようなアイデアを持っていたという。
“a room with walls made of folded translucent parchments lighted from behind, creating therefore an environment of moving images. Fontana also designed some kind of magic lantern to project on walls life-size images of devils or beasts.”
半透明の羊皮紙を折り合わせて作った壁面の背後から光を当て、壁面に動く画像を投影する部屋。またフォンタナは悪魔や野獣の実物大の絵を壁に映し出す「マジック・ランタン」の元型も設計していた。
現代の3D CAVEシステム
現在の3D CAVEシステムは次の動画のようなものになっている。基本原理はフォンタナの頃と大差ないのがわかる。
“virtual” の反対概念は “real” ではなく “actual”
ここらで整理しておこう。
virtualを「仮想」「虚構」と捉えるのは混乱の元なのでやめよう。仮想とか疑似というイメージに引きずられると、virtualの反対概念を “real” と捉えてしまうが、それはやはり “actual” でなければならない。
虚構―現実
という対比ではなく、
可能なる(潜在的な)物事―現前している物事
と考える方がすっきりする。それでこそ、virtueの語義の中核にある「潜在力」「潜在性」が浮かび出てくるからだ。同じ伝でいくと、”real” の対義語は “possible” である。
現実性(現実化した物事)―可能性(まだ現実化していない物事)
という関係だ。”real” を介すことで “virtual” と “possible” の近縁関係が見えてくる。
フォンタナのマジック・ランタンでイメージされていたのは、仮想的なもの(虚構)というより、可能なもの(夢見られた世界)だったのはないか。「まったく同じではないけれど本質的に同じ」、「いまは違うけれどいつか同じになるかもしれない」、こういう「潜在性」や「可能性」は西洋の知的伝統上、最も端的には人間と神の関係に還元されていくだろう。フォンタナが悪魔や野獣を引き合いに出して異世界を作り出そうとしたのは、彼の脳裏でそれとは真逆のもの、すなわち天使や神が夢見られているからだと思われる。
可能なる現実
But the Turing test cuts both ways. You can’t tell if a machine has gotten smarter or if you’ve just lowered your own standards of intelligence to such a degree that the machine seems smart.
If you can have a conversation with a simulated person presented by an AI program, can you tell how far you’ve let your sense of personhood degrade in order to make the illusion work for you?
チューリングテスト(※ある機械が知的かどうか、あるいは人工知能かどうかを判定するテスト)は両様に解釈可能な結果を出す。機械が賢くなったのか、それとも機械を賢く感じるように知的判定基準を下げたのか、にわかに判定できない。
AIプログラムがシミュレートする人間と会話が成立したとしよう。そのとき、機械の作り出す幻影に合わせて、人間側で人間らしさの敷居を下げているのではないか?
People degrade themselves in order to make machines seem smart all the time. Before the crash, bankers believed in supposedly intelligent algorithms that could calculate credit risks before making bad loans. We ask teachers to teach to standardized tests so a student will look good to an algorithm.
We have repeatedly demonstrated our species’ bottomless ability to lower our standards to make information technology look good. Every instance of intelligence in a machine is ambiguous.
人間は機械が賢く見えるように自分の程度を劣化させている。あのリーマンショックが起きたとき、銀行家は平気で劣悪なローンを組んでいた。賢いはずのアルゴリズムが算出する貸し倒れリスクを信じて。学校も同じだ。標準化テストと称して教師が作っているのは、アルゴリズムが学生を賢く思うようなテストである。
要するに、情報技術が進化しているように見せかけたいがために、人間側の基準を引き下げ、人間という種がどれだけ底なしに低能化できるかを競っているのである。
The same ambiguity that motivated dubious academic AI projects in the past has been repackaged as mass culture today. Did that search engine really know what you want, or are you playing along, lowering your standards to make it seem clever?
While it’s to be expected that the human perspective will be changed by encounters with profound new technologies, the exercise of treating machine intelligence as real requires people to reduce their mooring to reality.” (“You Are Not a Gadget”)
その昔、胡散臭いAIプロジェクトがそそのかす対象はアカデミズムに限られていた。それがいまは新たな装いで大衆文化をだまし始めている。検索エンジンは本当にユーザーをわかっているのか?それともユーザーがそれと知りながら人間側の基準を引き下げ、検索エンジンが賢く見えるよう協力しているだけなのか?
深遠な新技術との出会いで人間のものの見方が変わるとの期待がある。しかし人工知能を本物として扱うには、人間の側で、現実とのつながりをある程度薄めることが求められる。(『人間はガジェットではない』)
量子力学的世界観と矛盾しない『リグ・ヴェーダ』の宇宙観
ラニアー氏が “virtual reality” の “virtual” に籠めた願いは、IT技術による「可能なる現実」の創出だったはずだ。彼がいまある現実に満足なら、そもそも “virtual” な別の現実など必要とも思わなかったろうから、ラニアー氏は現状に何か不足なり不満なりを感じていたに違いない。
でもVR出現後のIT社会に彼は批判的なのだから、現在のIT社会は彼の期待に反しているか、彼らの期待の内容が間違って受け取られたかのどちらかだろう。彼の口ぶりから要約すると、「人間の側が合わせる必要がある程度のIT(人工知能)なら要らない」である。つまり、もっと人間と対等な(あるいは人間ができない何かを教えてくれるような)AIが欲しいのだが、実際のIT社会はそういうAIを実現していないわけだ。確かにIT社会は、いまのところFAANGなど新たなマネーメイキングマシンを出現させているに過ぎず、ユーザーが知的に揺さぶられるようなイノベーションは実用化されていない。
しかし、そういうこととは関係なく “virtual” はいまも重要な問題だ。”virtue” の根底には、単なる近代科学の帰結としてのIT社会におさまらない、もっと深い要素が埋め込まれているからだ。それが「潜在力」であり「可能なる世界」である。しかもその大元は “vir”、すなわち人間なのだ。
内へ向かう潜在力と外へ向かう潜在力
ローマ人はギリシャ人の “arete” を翻訳して “virtus” とした。この翻訳による飛躍が中世、キリスト教神学と結びついて倫理道徳の中核概念に発展した。トマス・アクィナスの枢要徳と対神徳だ。それは人間に内在する力の表象である。
他方でルネッサンス以降、科学が知の中心にのし上がっていくその端緒で、”virtue” は人間の内部から外部へ出ていく。形容詞形 “virtual” に化けるや、科学的人間の想像する「可能なる現実」の表象的存在となっていった。人間の潜在力の外部化である。
西洋思想史は極論すればプラトン派とアリストテレス派のせめぎ合いだ。
- 前者の人間内部へ向かうベクトルはアリストテレスの自然観に基づく。
- 後者の外在化のベクトルは、イデアを人間の外部に想定したプラトンの自然観に基づく。
現われ方の方向こそ違えど、”virtue” が人間の「潜在力」である点では共通している。
中世神学的世界観から近代科学的世界観へ
この「潜在性」とは何か?近代的科学の世界観(ニュートン力学や統計学)では世界は物質であり、物質は原因⇒作用⇒結果の因果法則に従う。つまり、潜在性とは作用の働く前の状態に過ぎない。
近代科学的世界観の前には、まず中世的な神学的人間観があった。
そこから出発しよう。中世的な世界観においては、ヴィルトゥスを生む方程式は以下のようになるだろう。
原因:神⇒作用:恩寵(グレース)⇒結果:人間のヴィルトゥス(徳、潜在力)
これを近代科学的世界観の物質主義で書き直すと、次のようになる。
原因:人間の社会性(政治、戦争、名誉欲、家族愛、愛情、信仰心など)⇒作用:社会行動(戦争、競争、労働、結婚、観想など)⇒結果:社会的ステータス(ヴィルトゥスが発現した有徳者、富裕者、権力者、英雄など)
量子力学的世界観
以上は原子レベルの物質しか知らなかった時代の世界観である。ところが量子の発見により、世界は大きく2つの異なるふるまいで出来ていることがわかってきた。
いわゆる物質(matter)の世界は中世的、近代科学的世界観の法則に従う。その意味で物質界の現実はそのまま現実として機能している。
しかし物質を構成する原子(atom)は、さらに原子よりちっちゃな量子(quantum)と呼ばれる極小存在によって出来ている(電子、光子、ニュートリノなどはすべて量子の種類)。超ミクロな量子の世界は物質界を制約している因果法則に縛られない。量子は人の常識を逆なでする不可思議な挙動を平気でするのだ。量子は基本的に粒子と波動という2つの状態(state)をとる存在である。そういう意味で物質ではない。
たとえば、人が量子を観測すると、量子は粒子の挙動をして物質として振る舞う。人が見ていないと波動として揺らいでいる(非物質状態にある、といってもいい)。
また、量子を真っ二つに引き裂いてお互いを無限遠に遠ざけたとする。その片方に何らかの作用を加えてある影響を与えると、その影響は遠く離れた他方にも同時に現れる。嘘のような本当の話だが、量子には時空を超えられるテレパシーがあるのだ。
どうして量子にそんな “非常識な” ふるまいが可能かというと、量子が粒子(物質)であって波動である「状態」だから、としか言いようがない。
この量子的世界観、実はヴィルトゥスという概念、あるいは “virtual” という概念に織り込まれているともいえるのだ。「見出されなければ(あるいは発現しなければ)存在しないも同然」というヴィルトゥス(”virtual” )の本質は量子のふるまいと矛盾しないではないか。
量子の世界は人間とモノとが「だるまさんが転んだ」で遊んでいるようなものだ。人間が “だ~るまさんがこ~ろんだっ” と数えている間、量子がどうなっているのか誰にもわからない。振り返って目を開くとそこに量子は「ある」。量子力学の世界はそうした「潜在性」に満ちた場所なのだ。
ヴェーダの宇宙観
以上の「世界は固定的ではなく潜在的」という認識は別に量子物理学のオハコではない。いまから3000年以上も前にインドのバラモンたちは、この世界の実相に気づいていた節がある。
バラモン教初期の聖典『リグ・ヴェーダ』には有名な「宇宙開闢の歌」と呼ばれる世界創生の讃歌がおさめられている。注意したいのはこれはいわゆる神々(あるいは唯一神)の創世神話とは次元が異なる点だ。「宇宙開闢の歌」は神々より古い時を歌ったものなのだ。
以下のサイトで「宇宙開闢の歌」のエッセンスのみを抽出している部分があるので、それを引用する。
Bare Essence from the hymn 1029, Mandala 10, Rig Veda, aka, Nasadiya Sukta (“Not the non-existent”)
There was neither existence nor non-existence then.
There was neither sky nor heaven beyond it.
What covered it and where? What sheltered?
Was there an abyss of water?
Who knows and who can here tell
Whence it all came, whence is this creation?
Whether he made it or not,
The overseer of it in the highest heaven,
Only he knows it. Or doesn’t he know?
勝手に訳すと、だいたい次のような感じになる。
はじめ有はなく無もなし。
空はなくその上に天もなし。
ただ底知れぬ深淵なる水あり。何がそを覆い、いずこより支えしか?
そも、この創造はいずこより生じ、いずこより来たりしか?
誰も知らず、言い当てることもかなわず。
唯一者がそを為したいましか、然らざりしか。
最も高き天に坐ます見者より他に知る者なし。否、見者でさえ知る由なきか?
創造についてはわからないことだらけといっているのに、”There was neither existence nor non-existence then.” という認識だけは疑われていない。まるでビッグバンを先取りするかのように、無も有もないところ(深淵なる水)から、突如、有が生じたというのだ。では、その原因は?
省略されているパッセージには、創造のエキスが圧縮したかたちで記述されている。最重要と思われる3~5節を引用しよう。
3
There was darkness concealed in darkness.
All was water without shape.
The One enclosed in nothing
Emerged by the power of heat.4
First to arise was desire,
The primal seed of mind.
Wise poets searching their hearts
Found the bond between existence and non-existence.5
That cord was stretched across.
What was above and what below?
Seeds were shed and mighty powers rose.
Below was urge, above was will.
時系列の錯綜を取り除いて整理すると、唯一者(神に先立つ究極の真理)は虚無に包まれていたが、熱の力に促され、呼吸することなく息をし始める。そして欲動という種子が生じる。これが心(人間の精神)の始原だという。
科学的にいえば、熱の変化が唯一者に働きかけ、唯一者の欲動という作用を生み、その欲動が量子のふるまいを変えたことが、宇宙の始まりだと告げているに等しいのだ。
この歌には欲動で顕現した世界において人間存在とは何なのかについてもさらりと告げられている。
Wise poets searching their hearts
Found the bond between existence and non-existence.
….
Below was urge, above was will.
wise poetsと訳されているのはリシ(Rishi)、いわゆるバラモン教の賢者のことだろう。リシが己の心(マインドではなくハート)を探ると、有(存在)と無(非在)の絆(bond)が発見された。この絆(cord)が人間存在だというのである。
絆の上と下に種子が蒔かれ、大いなる力が生じる。絆を下で動かす種子(力)は衝動(urge)であり、上で動かす種子(力)は意志(will)である。
欲望が世界の原因
『リグ・ヴェーダ』によれば、唯一者の欲動に呼応して、衝動(欲動)と意志(理性)を動因とする人間が現象したのである。おそらく後代の人間は前者をemotionと呼び、後者をreasonと呼んだ。これは宗教的な神々の誕生よりも根源的な出来事として描かれているのである。
すべての原因は唯一者の欲動だ。欲動を生じさせたのは熱、すなわちエネルギーである。熱エネルギーがなければ宇宙は虚無のまま(潜在力のまま)発動しなかった。したがって唯一者とは存在と非在の区別を超えたエネルギーそのものであり、人間の思惟(哲学)の範疇を超えている。宗教以前の話なので宗教的思念の範疇も超えている。いわば、量子のふるまいの変化がすべての原因なわけだ。
そこに理由を求めても仕方がない。唯一者が欲望したという事実、それだけが世界の存在している理由なのだから、ニヒルといえばニヒルだ。
ヴェーダの世界観においては、ギリシャ・ローマ的なヴィルトゥス(潜在力)はより原初的なところまで遡り、人間とは「唯一者の欲望によって発動し、有と無を結ぶ絆だ」と定義されているのである。英文で書くなら、
Human is a virtus activated by the desire of the One.
あるいは、
Human has been given a virtus because so desired the One.
ということになろうか?
有の世界観と無の世界観
おそらくジャロン・ラニアー氏が、自らの発明に “virtual” という名前を与えたとき、彼はこうした意味での「潜在力」の世界の開花を夢見ていたはずだ。現状、人間世界はマネーを欲望することに忙しく、ひたすら有を拡張する方向に動いている。唯一者が与えた「存在と非在を結ぶ絆」としての役割はまったく真剣に考えていない。
しかしどうだろう。量子力学的世界観を手にした以上、徐々にでも変わらざるをえないのではないか。もし先進諸国に “先進性” があるのであれば、今後は人間文明に「無」を採り入れいく方向しかないだろう。少子高齢化はその先ぶれとも考えられる。ヴェーダのいう下からの促し(urge)により、人間の理性(will)が試されるのである。
同じことだが、これまでの西洋文明はずっと存在論(ontology)と実存主義(existentialism)をめぐって徹頭徹尾「存在」「有」「在ること」で押してきた。宗教論も同じで、アブラハム宗教の創造神話は神を超越存在として現象界の外部に置いてしまったため、「存在と非在を結ぶ絆」を考えられなくなった。それで、ぜんぶキリストを介した三位一体論の方向へ解消してしまったのである。
しかし今後は「非在」「非存在」「無」「無いこと」をめぐってインドや中国や日本の「無」に関する思惟の伝統に関心を傾けざるをえないのではないか。AIもその線で進化させた方が面白いと思う。
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