【政治・社会】ソーシャル・ジャスティスの唯物論的平等主義と失われた衡平感覚
前回、ユリウス・エヴォラにかこつけて社会正義の疑似宗教性について論じた。
今回は、そもそも社会正義(social justice)という思想はどこから来たのかについて考えてみたい。
近代的社会正義の起源
保守とリベラル:自由と平等のはざまで
リベラルというのは社会がお節介してでも平等を実現したい人たちなので、猫の手でも坊さんの頭でも借りるのである。
保守とリベラルの差は自由という物差しで測るといい。自由を大きくして平等を犠牲にするのが保守、平等を大きくして自由を制約するのがリベラルである。欲張ってどちらもでかくしようというのがリバタリアンで、いやエリートに全部仕切らせろというのが全体主義である。
急速な都市化に対するタパレッリの問題意識
タパレッリの問題意識は産業革命による農村から都市への急速な人口流出と、それによる農村伝統、家族伝統の崩壊への危機感に根差していた。以下の記事を引用しながら進めよう。
Taparelli wasn’t clear what he was looking for, but he was clear about the problems, some of which I’ve outlined to you: the movement away from the country to the cities, moving away from the family food supply, becoming wage-dependent, family members going to work in different locations. The strain on the family was enormous.
タパレッリはどんな解決があるかはわからなかったが、何が問題かははっきり認識していた。田舎から都会へ人口が流出すると、流失した家族の成員は、それまでの自給自足的な食生活から離れ、給与に依存するようになる。それで家族に深刻なしわ寄せが及んだ。
レオ13世の回勅
彼は “Rerum Novarum” (新しき事柄について→新事態について)という回勅(encyclical: a letter to the whole world)を発表した(なぜ、世界への手紙なのかといえば、南北アメリカ大陸の発展により、カトリックがヨーロッパだけを相手にしていれば済む時代は終わっていたからだ)。
カトリック教会が社会問題の解決に向け公式メッセージを発したのはレオ13世が初めてである。そのくらい事態は切迫感をもって捉えられていた。なぜなら、家族こそカトリック教会の存立基盤(現代政治でいうなら、票田)だからだ。レオ13世が問題視したのが他ならぬ社会主義者だった。
“Rerum Novarum” には次のようにある。
Therefore, let it be laid down in the first place that in civil society, the lowest cannot be made equal with the highest. Socialists, of course, agitate the contrary, but all struggling against nature is in vain. There are truly very great and very many natural differences among men. Neither the talents nor the skill nor the health nor the capacities of all are the same, and unequal fortune follows of itself upon necessary inequality in respect to these endowments.
そもそも、市民社会では最下層と最上層を平等にすることはできないことを認識しなければならない。社会主義者は逆のことを唱えるが、自然の摂理に抗しても無駄である。個々の人間の間にはもって生まれた大きな違いがある。才能、スキル、健康、体力などみな違う。財産の不平等は、このような素質の不平等によって必然的に生じたものである。
Such inequality is far from being disadvantageous either to individuals or to the community. Social and public life can only be maintained by means of various kinds of capacity for business and the playing of many parts; and each man, as a rule, chooses the part which suits his own peculiar domestic condition.
かかる不平等は個人にも社会にも有害とはいえない。社会生活(公共生活)は様々な職能によって維持される。それは各人が己の職分を果たすことによって可能となる。原則として個々人はその財政状況に応じた職分を全うするのである。
財政状況に応じた職分とは、要するに財産をもたない者はもたないなりの職をみつけ、財産を増やす以外ないということだ。死すべき存在である人間が私有財産を保証されることは重要だが(そうでなければ彼は不安で仕方がない)、それは社会主義者のいうような、人間は生まれながらに平等だから誰にでも平等に社会の富を分け与えるべきだ、という発想とは異なる。
equityとégalitéの違い
才能や職分に応じた報酬を受け取れる機会を与えることと、生まれながらにすべての人間に同じ権利を保証することの間には大きな飛躍がある。実は、この違いが社会正義思想を考えるうえでの肝なのだ。
記事の著者Michael Novakは次のように解説している。
In English, equality usually suggests fairness, equity, or the equitable; but what is equitable is often not to give people the same portions, but rather to give what is proportionate to the efforts of each.
In European languages, most thinkers followed the model of the French term égalité. Égalité means the “equals sign,” égal. “This” on one side is equal to “that” on the other side. Égalité is a quite different notion from the English “equitable.”(中略)
In brief, shifting to the French égalité changes the entire meaning of equality from equity or fairness to arithmetical uniformity.
英語でequalityは公平性(fairness)あるいは衡平性(equity、the equitable)を意味するが、衡平は人々に同じ分け前を与えることではなく、それぞれの労力に応じて比例的に配分するという意味である。
ヨーロッパ語圏の思想家たちは、このequity(衡平)をフランス革命由来のégalitéの概念モデルで理解しようとする。égalitéは等号(イコールサイン)のことであり、一方のこれと他方のあれが同じだということを前提とする。英語のequitableとは異なる概念なのである。(中略)
要するに、フランス語のégalité概念をベースに平等(equality)が考えられるようになって以来、公平(fairness)や衡平(equity)の概念は、一律数値化できる平等にすり替わったのである。
つまり、カトリック神父の伝統的な考えでは、個人間の自然的な差異は公平や衡平(いわば人間の法意識)で調整できるのだが、これがフランス革命以降の左翼思想では、ひとしなみに誰もが同じ分け前にあずかる権利があるという風に置き換わったわけだ。そこでは才能や努力は数値に還元され、評定される。公正や衡平のバランス感覚は意味をもたない過去の遺物というわけだ。
わかりやすくいえば、こういうことだ。頑張った人には頑張った分だけ報いる社会は健全だが、ナマポを受ける必要もないのにナマポを受け取れる社会は健全とはいえない(本当に困窮する事情を抱えた人のみが受け取るべき)。ブログ主はそう考えるが、社会正義論者はそうは考えない。ナマポは誰でも等しく受け取る権利があるというのである。この権利というのが彼らのフェイバリットワードだ。
equityということばはわかりにくい。法律用語でもあり、株式のことも意味する。衡平と訳されることが多く、益々わかりづらい。しかし原義は「衡」の字でわかるように「釣り合い」のことだ。
たとえば、社会がA+B=Cという等式で表されるとしよう。Cは社会全体、AとBは市民である。いま、社会にはイチゴ2パックと豚肉2パックの財産がある。これを分かち合おうというとき、唯物論的平等論はequalityを至上命題とするから、イチゴと豚肉を1パックずつ市民Aと市民Bに与えることが正義と考える。
ところが、市民Aはイチゴが嫌いで市民Bは豚肉より鶏肉が好きだ。両者が話し合って市民Aが豚肉2パックを受け取り、市民Bがイチゴ2パックを受け取ることで合意した。値段的にはイチゴが1300円、豚肉が1000円なのだが、彼らはそれで構わないという。これが釣り合う、衡平の論理である。質的に正義は達成されたわけだ。
果たしてどちらがハッピーな社会だろうか?
自然的な質的差異の量的平等化?
いまどきの社会正義思想はレオ13世の問題意識を素通りし、無批判に唯物論的な平等主義に傾いている。社会正義を唱える者の脳裏には、衡平の観念が欠落している。
- 伝統社会の価値観:「個人・公共の繁栄」の衡平なる発展が正義。衡平に基づく分配が理想。
- 現代の唯物論価値観:「物資的平等」が正義。全員が(個々の能力や努力とは無関係に、とにかく)物質的に満たされる社会が理想。
唯物論的発想は昨今のLGBT議論にも露呈している。LGBTとそうでない者は自然が生みだした差異である。社会が実現すべきは偏見や差別感情の払拭も含め、彼らの衡平な扱いである。カミングアウトして表立って活躍したい人もいれば、いや静かに暮らさせてくれという人もいるだろう。両者の生き方をともに認めるのが衡平な社会である。
ところが昨今のLGBT論者は、当事者の気も知らないで、何でもいいから無条件にLGBTでない者と平等に扱え、同じ権利を保証しろという。人間には自然的(先天的・遺伝的)差異がある、それは質的差異であって人為的に消去できない。にもかかわらず質的差異を “数値” のような量に変換しろという。
本当にそれがLGBT当事者の望むみんながハッピーな社会だろうか?
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません