スポンサーリンク

【語源学】深淵について03 ― カーリーとロゴスと現代社会

2018-05-29宗教, 文明文化の話, 歴史, 語源学

(アイキャッチ画像出典:https://www.elephantjournal.com/2017/01/2017-is-the-year-of-kali-goddess-of-endings-beginnings/)

[toc]

スポンサーリンク

女神の中の女神カーリー

(出典:wikipedia)

女性性の根源を探っていくと、そこに立ち現れてくるのはインドの黒き女神カーリーだ。Kaliの語源は「黒い、青黒い」もしくは「時間」。いずれも始原の深淵(原初の海)に連想が及ぶ名前だ。

kali
A name of Devi, the Hindu mother-goddess, in her black-skinned death-aspect, 1798, from Sanskrit kali, literally “the black one,” fem. of kalah “blue-black, black,” a word from a Dravidian language. Also taken as the fem. of kala “time” (as destroyer).

注意してほしいのは、この神の名前はアーリア人のヴェーダ語やサンスクリット語ではなく、ドラヴィダ語から来ていることだ。ドラヴィダ人はアーリア人が侵入してくる前からインド亜大陸に定住していた人々である。

シヴァ神の妃とシャクティ派

このインドの大地が生んだ古い古い女神は、いまでもヒンドゥー教信者の間で人気が高い。とうとうヒンドゥー教シャクティ派の主神に登りつめてしまった。

破壊の神シヴァ(Siva)のお妃のひとりとされながら、はっきりいって旦那を食っている。上の絵でカーリーに踏みつけられているのはシヴァ神自身だ。

公式の解説では、そのまま放っておくと大地を壊しかねないほど “逝って” しまっているカーリーを抑えるために、シヴァは身を横たえ、カーリーと大地との緩衝材になっているのだというが、どう見ても力関係としてかかあ天下に見える。

カーリーのこのようなグロテスクなまでの破壊性は、すべてを生む力(創造力)の一部である。「創造vs破壊」という後世の二項対立イメージをあざ笑うかのような徹底性、雄々しさ!そういうものがこの女神の特性である。

デーヴィー・マーハートミャ

この神がシヴァ神の妃とされたのはアーリア支配階層とドラヴィダ他の原住民の祭祀が習合された結果だと思われる。

たとえば、AD5世紀頃に編纂された『デーヴィー・マーハートミャ』はインド混成民族(デーヴァ族)が悪神アスラ族を打ちはらう物語だが、シヴァ神の正妻(?)ドゥルガー(durga)の憤怒の相変位としてカーリーが登場し、アスラ神を打ち負かすのである。

インド宗教史において、カーリーは普段は隠された神格なのだが、いざという決定的な場面で召喚され発現し、圧倒的なパワーを放つ。それくらい根源的な力なのである。

カーリーから深淵へ

だからこそカーリーの「黒」は後世、オリエント世界のみならずギリシャにも伝わり、tehomやabyssといった深淵のイメージに反映していったのではないかと思われる。

深淵は原初にある得体のしれない、わけのわからないものではあるが、創造には欠かせないトポスである。水にたとえられているのがそのよい証拠だ。言い換えれば、父権社会になっていた世界が、とても無視はできないが、でも普段は大人しく隠れていてほしい母性パワーの源である。

男社会の武器ロゴス

カーリーが深淵化されていく時代はここ2000年ほどのことである。この2000年、人類は男が女より偉いと言い張ることで進んできた。

それは単純な英単語を見てもわかる。manに対してwoman、maleに対してfemale。まず男ということばがあって、それに接頭辞(形容)がくっついて女ができた。創世記のアダムからイヴがつくられる話と平仄があっている。

「でも・・・、それは歴史の書き換えが進んだ証拠に過ぎない!捏造だ!」

というのが、いわゆるフェミニストの主張だ。最初に偉かったのは女であり、男は従属的属性に過ぎなかったのだ、と。「女性解放」「ウーマン・エンパワーメント」等々、フェミニストのまとっている現代的衣装は個人的にはぞっとしない。でも、だからといって彼らの言っていることのすべてがでたらめだとは思っていない。実際、歴史の奥深くを覗いていけば、まず女社会が先にあったことは否定しようがないのではないか。

ヨーロッパ文明の自己認識

500年ほど前から世界進出を始めたヨーロッパ人は、自分たちの世界認識を広げれば広げるだけ足元の危うさを自覚していったように思う。自信たっぷりにキリスト教を布教していたかたわらで、

「キリスト教っていったい何なのか?」「俺たちの信じている神っていったい誰なんだ?」「どこから来たのか?本当にイスラエルなのか?」

などと自問自答していたのではないか。

ヨーロッパ人の世界認識の東端はつねにインドだったから、彼らは改めてインドに関心を向けざるをえなくなった。19世紀ヨーロッパ人の得意が頂点に沸騰していた時代、遂に「発見」したのがアーリア人のインド征服伝承だった(ヴェーダ文献)。

Ayians!アーリア人、高貴なる者!その輝かしい血統が生んだサンスクリット語。ヨーロッパ諸語の生みの親!俺たちのルーツ。輝かしきインド・ヨーロッパ語族!

言葉は神なり、神は言葉なり

ヨーロッパの男社会を象徴する概念がギリシャ語由来のロゴス(logos)である。ヨハネ福音書が「神は言葉であり、言葉が神である」というときの言葉、それがロゴスだ。

このロゴスとは何か?フェミニスト学者として有名なバーバラ・ウォーカー(Barbara Walker)『失われた女神たちの復権』 (”The Woman’s Encyclopedia of Myths and Secrets”)の「ロゴス」の項目から引用してみよう。

Greek “Word,” a theory of creation that passed from Tantrism through Neoplatonic philosophy to Christianity. The theory was that a deity could create anything other deities, worlds, creatures by the power of magic words: when the name was spoken, the thing materialized. The Logos, then, was divine essence concentrated in a Word and made manifest, as Jesus was called “the Word made flesh.” The Gospel of John gave him eternal existence: “In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God” (John 1:1).

ポイントは、まず第一に、ロゴスが「創造」に関する理屈だということ。「創造」といえば堅苦しいが、要するに「生む」ことだ。

次に起源はタントラ哲学、つまりインドにあること。タントラ哲学(タントラ教、タントラ思想)とは、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、密教などタントラと呼ばれる経典を奉じる、インドの神秘主義的教団を、ヨーロッパ人が総称した概念だ。

このタントラ(ヴェーダ文献が中心)がギリシャへ伝わり、新プラトン哲学経由でキリスト教に伝わった。アレクサンドロス大王は大遠征を通じてライバル・ペルシャを滅ぼし、お隣のインドの一部にも進出したから、そのとき大量の情報がギリシャへ持ち帰られたのである。

3つ目のポイントは、発語あるいは息吹である。言葉を発することで実体が生まれる(受肉する)。言葉が発せられた瞬間、神意が現実化する。イエスが “the Word made flesh” だというのはこの意味だろう。

単純化してしまえば、言葉に神通力を見出し、言葉を創造力の源泉と考えることをロゴスという。日本の言霊思想に近いものを感じる。この神通力、創造機能としての言葉を言い張ったのが男社会だということなのである。

母権社会への対抗手段

その理由についてウォーカーは簡潔に次のように言っている。

One of the reasons for male enthusiasm for the Logos doctrine was that it provided male gods with a method of creating, formerly the exclusive prerogative of the birth-giving Goddess.

男がロゴスのドグマに固執するのは、女神の「生む」特権を持ちえない男が、「仮想的に」生む権利を獲得する手段だったからだ。つまり、自然がメスに与えた生むという機能に、言葉(近代では悟性、理性)で対抗し、メスを超えたいという悲しいオスの性(さが)がそうさせたのだ、と。おろしいことに2000年もそれで押し通してきたのである。その象徴がローマ法王であり、マルクス主義であり、現代イスラエルであり、多国籍企業である。

ポストモダンが見ないようにしたもの

そういえば、1980年代にポストモダン思想というのが流行ったとき、盛んにロゴス中心主義の脱構築(deconstruction)ということがいわれていた。欧米人が思想的に行きづまって、それまで支配的だったドグマ(言葉は神である信仰)を自己批判したのである。

ドグマの中心は音声中心主義といわれる傾向だ。欧米語はどれもアルファベットで書くから文字に対する感覚が鈍い。どうしても母国語の音、響きに重きを置く。でも、ホントにそうなのか?という自己反省だ。

ここに挙げている『失われた女神たちの復権』が出版されたのも1980年代。ウォーカー自身はポストモダンと関係ないかもしれないが、世の中全体の流れから見れば、同じ流れに押されて表面に浮上してきたのだろうと思う。

ところが、ソ連が崩壊すると、ポストモダンはいつの間にか立ち消えになって、世の中はアメリカ一局集中の拝金主義へ傾いていった。その過程でロゴス中心主義への疑いは、新自由主義とネオリベラリズムに回収された、「自由」「平等」「オープン」「エンパワーメント」・・・きれいごとの世界がトレンドになった。ヘイトスピーチ、LGBT、ポリコレ等々はすべてその延長線上にある。

しかし決定的に脱落した要素がある。女性である。ウーマンリブの次元でない、もっと本質的な意味での女性性である。

カーリーのロゴスと男社会のロゴス

たとえば、バーバラ・ウォーカーはカーリーに関して以下のような指摘をしていた。

As the primal Deep, or menstrual Ocean of Blood at creation, Kali was certainly the same as the biblical tehom, Tiamat, or tohu bohu, the “flux” representing her state of formlessness between manifested universes.

原始の深淵、月経の血に満たされた創造の海―。カーリーは聖書のテホム、ティアマット、トーフー・ボーフーと同じものであった。この女神こそ、明示された天と地の間にある、かたちなき状態、すなわち創造作用の流動性を表象する神格であった。

Indo-European languages branched from the root of Sanskrit, said to be Kali’s invention. She created the magic letters of the Sanskrit alphabet and inscribed them on the rosary of skulls around her neck. The letters were magic because they stood for primordial creative energy expressed in sound, Kali’s mantras brought into being the very things whose names she spoke for the first time, in her holy language.

インド・ヨーロッパ諸語のルーツはサンスクリット語にあり、そこから各言語へ分岐した。大元のサンスクリットはカーリーが創作した言語である。カーリーは魔法の文字サンスクリット・アルファベットを創造し、首飾りに文字として刻んだ。文字は、音に現れていた始原の創造エネルギーを定着させる魔法であった。カーリーが彼女の聖なる言語を使って初めて発した名前、それがカーリーのマントラ(真言)であり、あらゆる存在を地上にもたらした。

In short, Kali’s worshippers originated the doctrine of the Logos or creative Word, which Christians later adopted and pretended it was their own idea. Kali’s letters magically combined the elements, which were previously separate as fiery-airy (male) or watery-earthy (female) forces. The former were “cruel”; the latter “benevolent.” This distinction seemed to reflect the Tantric view of Kali as Lady of Life and her spouse as Lord of Death.

つまり、ロゴスや創造する言葉といった考え方はカーリー信仰者が始めたものだ。キリスト教徒は自分たちがそれを始めたとウソをついたに過ぎない。カーリーの文字は、それまで別々に存在した要素―火と空の力(男)と水と地の力(女)―を混合するために使われた魔法である。前者は「破壊」、後者は「仁愛」となり、後にタントラ教では死を司るシヴァ神、生を司るカーリーと解釈された。


つまり男社会が自分たちの拠り所にしたロゴスの起源もまた女性にあり、男社会の専売特許ではなかったという話である。どこまでいっても「女が元だ」という真実は動かしようがない。

ヘレニズム化したヘブライのロゴス

しかしここで誤解してはならないのは、カーリーのロゴスは formless(無定形)であり「永久不変の真理」などではない点だ。それは移ろい、揺らぎ、つねに人間のこころの持ちようを反映する。彼女に託された創造と破壊の極端なまでの二面性は、人間のこころのありようの振幅を表わしている。そこに永久不変の善も、永久不変の悪も存在しない。もし天に理法というものがあるなら、その振幅こそが理法であり、男社会の唱える固定化して永久に動かない真理などまやかしに過ぎない。

少なくても古代人の叡智はそのことを見抜いていた。だから彼らは唯一神的なロゴスの思想を理解しながらも、現実としては三相一体(trimurti)、三位一体(trinity、triad)などの諸相に神を位置づけたのである。

しかし、ヘブライ的な厳しい掟を母体とする初期のキリスト教徒らは、ローマ帝国の支配下にあり、ヘレニズム(ギリシャ文化)の洗礼に晒されていた。彼らにとって言葉とは神の言葉であり、それは命令であり絶対的なものだったが、ギリシャ哲学者がいう言葉(ロゴス)は性質が違った。

ギリシャ人のロゴスはそもそも自然探求から始まっており、必ずしも人間が契約を結ぶような人格神を含んでいない。それは「宇宙の真理」であり、真理に辿り着くための「理法」なのだった。ギリシャのロゴスは人間が神から離れて自由に振る舞える領域、ギリシャ人の有閑階級が男性結社をつくって編み出した人間のための領域だったのである。

“神” への違背が “深淵” から復讐され始めている

ここでヘブライの掟としての「神の言葉」は、神から自由な「理性の言葉」に変質し、その後を支配する男社会特有の思考様式となっていった。だから、ヨハネ福音書冒頭にある「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」は、キリスト教のドグマが何といおうと、実態としては、この改変後のロゴスである。

西洋文明の理性信仰は、一信仰への帰依を唱えつつ、最初から「神からの自由」を目指して歩きだしたのである。その矛盾が2000年後のいま表面化しているだけだ。セクハラスキャンダルやパワハラ訴訟でエリートや成功者がどんどん追いつめられているのは、矛盾のツケだ。これは単なる一時的な現象ではない。男社会はとうの昔に闇へ押し込めたはずの “深淵” から復讐され、よろめき始めているのである。

逆に、日本の若い男たちは無意識のうちにこの変化に対応してフェミニンな風情を身につけている。未来社会を先取りしているのだと思うが、彼らと旧式の男社会の間には “深淵” が横たわっていて簡単に解消できそうにない。

たとえば、この “深淵” は貨幣や人工知能の世界にも通じている。新たな世界への対応として仮想通貨やAIが表面に浮上してきているのだが、肝心の担い手を支えるはずの男社会が旧式のロゴス信仰にどっぷりはまったままだ。”理性” 的にAIを設計するとか、”合理” 的に人間の意識を探求するとか、大量失業に備えてベーシックインカムを導入するとか、何とも旧式の発想ではないか。

くどいようだが、カーリーは我々人間のこころの持ちようを反映するのである。それが数十万にわたる人類の叡智が見抜いた “真理” のはずである。当然、貨幣やAIにも我々のこころが反映しているのだ。人間の生みだすものにはすべて “神” が宿ってしまうから。

それは一神教vs汎神論、一神教vs多神教とかいうカテゴリ問題ではないのだ。現代人の我々に欠陥があるとすれば、こうした本来の意味での “神” への対し方を見失ったせいなのである。そこの部分こそ本当は問わなければいけない現代の “深淵” なのだと思う。

スポンサーリンク