【文化の重層性06】ヴァチカンのリベラル路線と三位一体論
前回、ヨーロッパ保守知識人の危機意識を紹介したが、長い間、ヨーロッパの精神的支柱であったローマカトリック教会も心中穏やかならざる点は同じ。身から出た錆とはいえ、近年のスキャンダル噴出は目を覆うばかり。
フランシスコ法王の暴言?
新法王フランシスコ(Pope Francis)は今様のリベラル思想の持主。イタリア左派系の大手日刊紙「ラ・レプッブリカ」の大物ジャーナリスト・スカルファリ氏と親交があり、何度か単独インタビューに応じている。ここでの発言は毎回けっこうお騒がせなのである。先般もインタビュー記事での “回答” が最近大きな物議をかもした。
問題の質疑応答を以下に引用しよう。公開直後、ヴァチカンの広報が慌てて、これは “発言そのまま” を引用したものではない、と弁解したいわくつき。
質問:”Your Holiness, in our previous meeting you told me that our species will disappear in a certain moment and that God, still out of his creative force, will create new species. You have never spoken to me about the souls who died in sin and will go to hell to suffer it for eternity. You have however spoken to me of good souls, admitted to the contemplation of God. But what about bad souls? Where are they punished?”
「聖下、前回お会いしたとき、人類はある時点で消滅し、神は、その創造力を発揮されて新たな種をお造りになると仰いましたね。でお、罪の中に死に、永遠に地獄で苦しむことになる霊魂については何も仰りませんでした。良き魂については、神の霊的真理を知ることになるのだと仰いましたが・・・、悪い魂はどうなるのでしょう?彼らは罰せられるのでしょうか?」
「霊的真理を知る」と訳したが、通常は「熟考する」「沈思する」「観照する」「凝視する」などと訳される。この単語の背景には神秘思想があり、文脈に応じて訳し分けるしかない。templeと同語源。昔の寺院は、信者が神に向き合って沈思し、見えない神を見出さんと虚空を凝視する場所だったのである。
法王:”They are not punished, those who repent obtain the forgiveness of God and enter the rank of souls who contemplate him, but those who do not repent and cannot therefore be forgiven disappear. There is no hell, there is the disappearance of sinful souls.”
「悪しき霊魂は罰せられるのではありません。悔い改めた者は神の赦しを得、霊的真理に近づく魂の位階に入ります。しかし悔い改めない者は神に赦されず、消滅します。地獄は存在しません。罪深き霊魂が消滅するだけです」。
“There is no hell”
消滅という言い方が前代未聞だった。”リベラルな人々” にとっては問題はなくても、カトリック教会にとっては問題なのだ。なぜなら彼らの公式見解に真っ向対立しているからだ。
The Catechism of the Catholic Church states: “The teaching of the Church affirms the existence of hell and its eternity. Immediately after death the souls of those who die in a state of mortal sin descend into hell, where they suffer the punishments of hell, ‘eternal fire.’ The chief punishment of hell is eternal separation from God, in whom alone man can possess the life and happiness for which he was created and for which he longs.” (1035)
カトリック教会のカテキズム1035条にはこうある、「教会は地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、地獄の苦しみ、『永遠の火』に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということなのです」。
※ カトリック教会のカテキズム より引用。
キリスト教の教義を簡略にまとめた入門書のようなもの。以前は「教理問答」の訳語が定着していたが、場所によっては問答集の体裁をとらないカテキズムも存在するため、現在はカタカナでカテキズムとする傾向にある。
キリスト教では、とくに旧約聖書の描写の影響から、地獄といえば業火のイメージがある。英語の成句にも、fire and brimstone というのがあり、硫黄と火のセットで神の怒りの象徴表現なのである。
これはペルシャで生まれたミトラ信仰やゾロアスター教が火を神聖視するのとは対照的だ。ユダヤ・キリスト教のペルシャ思想への複雑な感情が垣間見られる。
contemplateはじっと見つめる静観的態度
キリスト教の神秘思想のあらましは以下に詳しい。
この中でも解説されているように、神秘家は浄化、照明、合一の三段階を通じて、神と霊的に一体化すること(いわゆる神人合一)を目指す。最終段階の神秘家は実践的行為を離れ、神と己をじっと見つめる(観照する)段階へ至るわけだが、このときの状態をcontemplateと呼んでいる。
三位一体論(trinity)
上のフランシスコ法王とスカルファリ氏のやりとりでは、この神秘的な神人合一の境地が暗黙の裡に想起されているはずだ。
これを理解するには、キリスト教の教義の根幹となる三位一体論の理解が大切だ。
三位一体論とは、簡単にいえば、イエスを教義上どう扱うか、イエスの位置づけに関する理論である。イエスは神なのか、それとも人なのか?神の子とは何なのか?
初期のキリスト教会はこのイエスの位置づけをめぐって大いにもめた。もめた挙句、イエスは神性は付与されているが、実体的にはあくまで人間であるとした派閥は東方正教会(ギリシャ正教、アレクサンドリアのコプト教会、シリア、アルメニアなど)となり、その後、東ローマ(ビザンツ)帝国の主体となっていく。
一方、いやイエスは神の子であり、人間を救うため神が人間の姿かたちで地上に遣わされたに過ぎない(受肉、incarnation)とするのが西方教会すなわちローマカトリックである。カトリック教会は西ローマ帝国とともに成長し、帝国崩壊後もゲルマン系諸国家と組んでヨーロッパ社会の形成に深く関わっていく。
父なる神、イエス、聖霊
三位一体論とは結局何なのか?東西教会の違いを超えて本質部分を抜き出せば、神の実質はひとつ、その表れが三つということになる。
God is the Father, God is the Son, and God is the Holy Spirit, but the Father is not the Son, the Son is not the Holy Spirit, and the Holy Spirit is not the Father.
一なる神(サブスタンシア)は、父なる神(ヤハウェ)、子なる神イエス、聖霊(The Holy Spirit)の三者(ペルソナ)として現れる。神の本質は霊的なもので、ペルソナにはその霊が流れ込んでいるが、顕れる現象として相互に独立していて同一ではない。何だかわかったようなわからないような理屈だが、この三位一体論からは以下のような結論が導かれる。
- キリスト教の神は唯一無二である。
- 世界には他に神がないので異教の神々は偽りである。それらはキリスト教徒を惑わす悪魔、デーモンに過ぎない。
- 悪魔やデーモンを信じる人間は救われない。
- 異教徒は霊的人間ではないので人間と見なさない。したがって差別しても問題ない(表向きの理屈はともかく、キリスト教の説く隣人愛の隣人はキリスト教徒に限定されており、異教徒や無信仰者は含まれない)。
なぜ神と人の二つじゃダメなのか?
キリスト教の前提のせいである。人は罪深く堕落している。イエスの贖罪(犠牲)なしには己の弱さを自覚できないし、己に分け与えられた神性(聖霊)を自覚できない。それほど愚かだ(罪深い)から、絶対イエスの導きが必要なのである。
もし神と人の二者しか要らないということになれば、聖職者(媒介者)はどうなるか?究極、要らない。
聖職者は霊的媒介者
それでは困るというのが教会の本音だ。つまり三位一体論はカトリック教会が己の存在を正当化し、神の権威を笠に着るためにどうしても必要とした理屈であり、その教義の定立は政治的措置だったのである。その意味では排除された東方正教会やアリウス派の方が神学的には素直で “純粋” だったともいえる。
後の宗教改革では聖書のみを信頼し、神と直接向き合えと主張された。「本当は教会なんか要らねぇんじゃね?」という痛い部分をルターやカルヴァンにつかれたわけだ。
- 神の実質をラテン語でsubstantiaという。英語のsubstance、substratumなどはここから来る。
- 神の表れを位格といい、ラテン語でpersonaという。英語のperson、personality、personalなどはここから来る。
- 父なる神のペルソナは畏れ多いのでイメージ化しない(偶像崇拝の禁止)。
- 子なる神イエスのペルソナはロゴス(logos)。聖書に記録された「ことば」はそのまま神のことば(聖書が神聖視される所以)。英語のlogic、logical、学問・技術を表わす-logy(psychology、technologyなど)などはここから来る。
- 聖霊(広義の霊魂)のペルソナが人間である。だから人間をpersonと呼ぶ。
神秘思想との対応関係
神秘思想の浄化、照明、合一の三段階は、三位一体論の聖霊(holy spirit)、イエス、神にそれぞれ対応している。聖霊としての人は「浄化」を通じて、光であるイエスの「照明」を受け、神との霊的「合一」を経験できるのである。
キリスト教のカトリックでは、人→(イエス)→神という霊的な流れが絶対だが、プロテスタントにおいては人→神(イエス)という風に媒介者の役割が稀薄化している。
contemplation(凝視・観照)とmeditation(瞑想)の違い
contemplateを瞑想(冥想)と訳す場合もあるようだが、誤訳なのでやめた方がいい。瞑想(冥想)の「瞑(冥)」とは眼をつむるという意味だ。眼を開いてじっと見つめる凝視とは反対の所作なのである。
語源的にはcontemplateの語幹にあるtempleは「占いのために特別に区画された場所」。conは強意の接頭辞。占いとは神意を聞くことだから、contemplateの原義は「聖なる場所で静かに目を凝らし、神意をたずねる」行為である。contemplateにより神人合一の境地に達すると、人間は神の完全な姿を、はっきりとありのままに知覚・経験できるようになるのだろう。
日本人に馴染みのある瞑想は英語ではmeditation。主にインドのヨガや日本の禅が真っ先にイメージされる。ただし、meditateの原義は「じっと考える」ことであり、必ずしも瞑想的行為だけに限定されない(したがって「熟慮」「省察」などの訳語が充てられる場合もある)。
ではなぜmeditationが通常「瞑想」(冥想)と訳されるのかといえば、おそらく中国の道教、荘子の影響である。荘子では深い精神集中のなかで根源的な真理と一体化することを「冥」の一字を用いて表すことが多かったため、静観的な思索行為を「瞑想」というようになった。これを、近代になって英語圏から入ってきたmeditationに当てはめたのである。
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