【英語学習】カナン・アカデミー:英語スピーカーのロジックや常識も学べるユニークな英会話eラーニング

※2018.8.19 好評のようなので紹介記事を適宜、加筆修正した。
近年、注目を集めているeラーニング。英語学習でも多くの人が活用しているという。気になったので調べてみた結果、教材の設計思想にもっとも魅せられたのがカナン・アカデミーさんの提供する英語eラーニング・サービスだったので紹介する。

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カナンをおススメする理由1:アウトプット能力重視

なぜカナンさんを特におススメするのかといえば、英語圏の文化背景をインプットとして学びながら、自然なかたちでアウトプット能力を磨くというアプローチがユニークだったからだ。

「英語を学ぶ」は英語が目的→「英語で学ぶ」は英語が道具

アウトプット能力と聞いて、みなさんが容易に思い浮かべるのは、有名ゴルファーなどがコケージアン相手に英語をペラペラ喋る映像ではないか。ペラペラ喋れるに越したことはないが、それ自体は目的ではない。

クイック思考力の鍛錬

まず最初に、インプットとアウトプットの間にある「考える」時間をなるべく短くすることが肝心。会話は流れていくものなので「アー、ウー」と言っている間に白けてしまう。謎のほほえみは一度は許されても多用すれば軽く見られる。カナン・アカデミーさんのアプローチは思考力を鍛えるために、ビデオで瞬間的にレスポンスを返す訓練を行う。

背景知識(ロジックや常識)の習得

次に、ここが最も大事だが、思考力は背景知識の下地があってこそフルに活躍する。
あなたが英語で話す相手はお人形さんではなく生身の人間である。大事なのはアウトプット時にあなたが喋る中身だろう。
では中身とはなんだろうか?
もっとも大事なのは、コミュニケーションのコンテクストだ。相手の考え方(ロジック、価値観)や生まれ育った環境を理解した上で話すことが何より大事だ。完璧にわかっている必要はないが、基本的なことは押さえておいた方がいい。
カナン・アカデミーさんの最大特徴は、ここの部分「思考力の下地となる背景知識」をきちっと教えてくれる点だ。
背景知識があるのとないのではまったく会話の質が変わる。背景知識があれば、相手へのツッコミさえ可能になる。これはブログ主の個人的経験からもそうなる。こちらに背景知識があると相手にわかると、相手も安心して喋ってくるからだ。
こうした会話のコンテクストを重視し、英語で「相手の背景」を学ぶにフォーカスしたサービスは、ブログ主の知る限り他に例がないのではないかと思う。
多くのサービスは英語をそれ自体の習得を目的として学ぶアプローチである。たとえば単語やフレーズを機械的に覚え込むのと、英語スピーカーの頭の中を学びながら単語やフレーズを習得していくのは、まったく結果を生む。
たとえば、留学を考えてみよう。バカンスの延長という人、ワークホリデーで稼ぎながら語学学習という人、純粋に専門的な学問のためという人、さまざまなケースがあるだろうが、どれいにも共通するベネフィットがある。
背景知識(コンテクスト理解能力)の獲得である。
これだけは現地に住んだ者が圧倒的に有利だ。留学という行為の最大の費用対効果のひとつなのである。その一部を自宅に居ながらにして身につけられるというのは凄くないか?
現代は日本国内にもガイジンはたくさん住んでいるから、彼らとのコミュニケ―ションにも役立つだろう。

背景知識があると会話の質が深まる

近年、政治情勢が激しく揺れ動いている。アメリカでもイギリスでもお国が真っ二つに割れて喧嘩しているから、みんな苛立って神経質になっているようだ。であるなら・・・
  • 下手な政治的コメントはするな。
  • マイノリティ問題、移民問題、犯罪問題などもデリケートな問題だから触れるな。
こういう自主規制がアドバイスとして語られがちである。
でも、そうではない。彼らが学歴、結婚、子育て、キャリア、労働、宗教などについてどんな常識を背景にしているかを知れば、一社会人(あるいは学生)として対等に意見を交換できる。背景知識は文化情報だから、いわゆるビジネス・イングリッシュなどより応用範囲が広い。学校でも会社でもプライベートでも役立たない場面は存在しないのである。

ポリコレ・ソーシャルジャスティス全盛時代のフラストレーションを逆利用しよう

ネオリベ全盛の現代、ポリコレはデフォルトであり、何かといえばソーシャルジャスティスに結び付けられて語られる。そんな社会を息苦しく感じている欧米人は少なくない。
公共空間で本音を言えない。そんな社会でフラストレーションを溜め込んだ英語スピーカーは多い。外人である日本人相手なら結構気軽に本音を喋ってくれるかもしれない。
多少発音が悪かろうが、内容が面白ければ人間は素直に耳を傾けてくる。問題になるのは言い方であり、ニュアンスである。
たとえば、自分の意見を言う段になったら、こんな工夫はありだと思う。
  • “In my humble opinion, …” と、これは個人的な意見なのだが、と前置きする
  • “This may sounds rather harsh, ….” などとして、辛辣な意見や批判的内容の調子を和らげる
  • “It seems (appears) to me (that) the general public think ….”、あるいは “People usually think …” などと一般論として切り出し、相手の反応をうかがう
こういう気づかいは相手にちゃんと通じる。それがコミュニケーション能力、アウトプット能力を磨くことにつながっていくはずだ。気配りのできる民度の高い日本人なら気後れする必要はない。みなさん、日本語では当たり前にやっていることではないか。

カナンをおススメする理由2:時間・場所の制約がない

忙しい人が多い世の中で、ちょっとした空き時間に利用できるのがeラーニングの魅力だ。わからないことが出てきたら、ググれば深堀がきくだろう。背景知識に基づくリサーチは、漫然たる調べごとに比べリサーチを効率化し、質を高めてくれる。
 

カナンをおススメする理由3:フレーム・オブ・リファレンスの重要性をわかっている

“frame of reference” (FOR)という概念をご存じだろうか?
人間は本人が思っている以上に育った環境や文化の影響を受けている。同じ対象を見ても、それぞれ違う「窓」から対象を見ているのである。FORとはこの物事の見方の窓枠を指している。先に「背景知識」の獲得が大事だと言ったが、それはこのFORの学習と密接にリンクしている。

ベーシックな世界観の違いを押さえておこう

たとえば、ある社会でいちばん大きな認識の枠組みを宇宙観とか世界観と呼ぶ。英米やオーストラリアはキリスト教文化圏で、日本は神道文化圏だ。そもそも神の捉え方、自然の捉え方、つまり人間と環境の関係性が異なっている。この大きな認識の枠の違いが、ありとあらゆる事象の差異に反映している。その意味では、まずここを押さえておくことが大事だ。
くどくど説明したくないので、次の自作の図を見てほしい。とくに注意したいのは自然に対する概念の相違だ。
  • キリスト教の世界観では神は世界の外部にあって、世界を創造した。人間は世界において神と霊的につながる唯一の特別な存在である。だから人間は他の動植物を含め自然とは質的に断絶している。自然は人間が「コントロールする対象」であり「利用する環境」である。
  • 神道の世界観では人間は自然の一部であり、自然を超えたところに神はなく、自然そのものが神である。人間は自然から霊性を分け与えられている。したがって自然はその恵みに感謝すべきもの、そのもたらす天変地異に畏怖するもの、すなわち人間の方が自然にコントロールされる、という考えがベースにある。
神と自然と人間に関係する彼我の捉え方の違いが、他のあらゆる文化的相違、FORの違いに反映しているのである。

文化は色眼鏡

グローバル化が進んだといわれる世界だが、こうした世界観の相違は埋めがたい。
たとえば、タトゥー。欧米人は何の苦もなくファッションとして楽しんでいる節がある。でも日本人はどうだろう。刺青ときけばその筋の、銭湯への入場お断りの人々を思い浮かべるだろう。心理的抵抗なしにタトゥーを入れられる人は少数派のはずだ。
これは刺青という文化に対するFORの違いから来ている。

漢字に対する感覚も全然違う

また「命」「大和魂」などとプリントしたTシャツを好む欧米人は多い。彼らは漢字の意味はわかっても、背景になる文化を共有しないから、漢字を単に絵柄のひとつとして捉えているのだ。しかし日本人には映像よりも意味が先に入ってくるから、そういうものを人前で着る気にはなりにくい。

飛行機が自然物に見えたアフリカ住民

さらに極端な例を挙げれば、アフリカの奥地で小型飛行機が墜落したが、密林の中でなかなか見つからない。地理を熟知している現地住民に聞き込みを行っても、そんなものは見たことがないというばかり。
ところが、飛行機は意外にも、村からちょっとジャングルに入った場所で発見された。樹木がクッションとなって、飛行機はほぼ原型をとどめ、乗員は大けがを負ったもの生存していた。発見場所は現地住民が足しげく通う場所である。
捜索に来た欧米人が現地人に 「あそこに落ちているじゃないか」というと、彼らはきょとんとしている。飛行機というものを見たことがなかったのだ。現地民は確かに飛行機の姿を視界に入れたはずだが、風景に溶け込んだ自然物の一部としか認識されていなかったのである。つまり現地住民のFORに「飛行機」というものは存在しなかったのだ。

FORは認識のクセを映す鏡

このようにFORとは、それぞれの文化において、そこに生きるひとりひとりの行動や考え方を無意識のうちに規定する参照の枠組みである。そういう意味で、人間は “自由” に生きることはできない。言語からして母国語という枠組みに囚われている。
とくに日本語と英語は赤の他人ほどに違う。語順と書き文字も発音体系も・・・何から何まで。だから異文化コミュニケーションにはカナン・アカデミーさんのいうインプットを通じて学ぶことが大事なのである。

人間は自分のFORを外れたものをうまく認識できない

最後に、ネットにちょうどいい例文があったので引用してみよう。ある凶悪犯罪の犯人について捜査官が漏らした一言なのだが、人間がFORの枠外にあるものをうまく認識できないということがわかると思う。

The crime was so bad that even the experienced police detective replied, “I have no frame of reference for that. I know about cheating and violent criminals, but I wasn’t aware of John Doe’s level of depravity.”

事件はあまりに残忍で、経験豊富な捜査官でさえこう漏らほどだった。「オレの犯罪辞書には載ってなかったね。悪事や暴力犯罪については詳しいけど、この名無しの権兵衛レベルの凶悪さには思い至らなかった」。

“オレの犯罪辞書” と訳したのがFORだ。経験豊かな捜査官でもサジを投げるほど、残忍な反抗だったいう述懐である。ある種の先入観、思い込みが捜査を難航させた。
彼のように “犯罪の匂い” をかぎ分ける訓練を積んだ人の “参照系の網” (予想される犯人像)にさえ引っかからないのだから、防犯は不可能だというのが全体のニュアンスとなる。
FORをもう少し狭い範囲に限定する場合は、point of referenceという。どちらも覚えておいて損はない。
英語スピーカーとコミュニケートする場合は、このFORの違いを理解するよう意識するだけで英語習得の手助けになってくれるはずだ。