【英語で読む世界潮流01】AI革命と人間のゆくえ、日本人の役割

 

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日本はESL国の群から離れて立つ数少ないEFL国である

EFL国、ESL国の区別をご存じだろうか?
EFLは “English as Foreign Language” の略語、ESLは “English as Second Language” の略語だ。英語をその他大勢のひとつとして、あくまで外国語として扱うのか、それとも、抜き差しならぬ第二言語として扱うのかという差である。
 例えば、英語が公用語となっているインドやシンガポールなどはESL国である。英語の学習はマストと言ってよい。
 ひるがえって日本はどうか?確かに英語は義務教育で教えているし、入試でもビジネスでも利用される機会が多い。しかしそこに抜き差しならぬという切迫感なり、強制性なりは存在しない(仕事で無理やりというのはありえるが、それは国情一般の話ではない)。大学に入れば中国語でもフランス語でも勝手に選べる。

EFL国であることは日本のアドバンテージ

非西欧の国でEFL国と呼べる国は数少ないが、日本はその数少ない例外国のひとつだ。言い換えると、日本は英語を使わなくても生きていける数少ない非西洋国なのである。
大学では教授も学生も日本語で専門の勉強をすることができる。日本語で書かれたテキストを読み、日本語で論文やエッセイを書く。日本語で講義を受け、日本語で教授の質問に答える。ごく当たり前の光景である。
世界的に見た場合、これは例外的な光景なのだが、その事実を知らない日本人が多いし、知っていてもありがたいと思う日本人はあまりいないのだろう。
いまも多くの国は英語やフランス語でしか高等教育が受けられない。母国語で書かれたテキストさえない国がたくさんある。
なぜ中国や韓国からノーベル賞級の研究者が現れないか。言語が影響していることは明らかだ。中韓では外国語で書かれた文献で学ぶしかなく、母国語の世界に知的成果が蓄積していかないのだ。
日本がEFL国であることは例外的なアドバンテージであり、あなたやトコシエのご先祖様が列強(great powers)と闘ってかちえた歴史的特権なのである。AI時代だろうが何だろうが、このことの恩は忘れないようにしよう。人間は今後も(少なくてもしばらくの間は)地理的制約、家族環境、コミュニティ、社会の制約のなかで人間になって、生活し、死んでいかざるをえないのだから。

グローバル化は所与の前提だがそれはナショナリズムの無効を意味しない

ではそのEFL国の日本が “英語ベタ” とか “発音が変” などど言われてることをどう見るか?

一方に、グローバル化する世界で英語ベタはハンデであり、日本に不利に働くという見方がある。安倍政権はこちらの見方のようで、小3から英語の授業を始める早期英語教育を開始する模様。日本語脳が未熟な子どもに英語を刷り込むことの是非はまったく考えないようだ。

典型的なグローバリズム追従主義だ。

他方に、別に大した問題じゃない。英語なんて必要な奴や得意な奴がやればいい。日本人は日本で日本語で何でもきるから無問題という見方がある。国際的にみると、日本は保守的な国である。なんせ悠久の昔から続く天皇をいまも戴いているのだから革新に見えないのは当然だろう。日本人がうっとおしく感じているような左派リベラルの暗躍も世界にはそう見えないようだ。

これは健全なナショナリズムの立場と言えるだろう。

おそらく真実はこの中間くらいにあって、それまで左派が前面に出過ぎていた事態への修正が長期にわたって継続しているだけなのだろう。

グローバリズムvsナショナリズム論の不毛

したがって昨年末以降騒がれたグローバリズムvsナショナリズム論はあまり意味がないと言える。どこの国でもそうだが、グローバリズムは否定しようにも、もう引き返せない所与の前提になっている。誰もそこから抜け出せないのだ。英語でいえば、

“Nobody today can opt out of globalizing forces of the world economy.”

なのである。考えるべきはグローバル化に対抗するのではなく、グローバル化の先にあるAI革命の時代に、人間のナショナルな価値観や伝統とどうつきあうかということだ。なんせ、もうすぐそこに、人間が機械によって判定され失業したりリクルートされたりするのが当たり前になる時代が迫ってきているのである。

にもかかわらず、人間は電子情報のように瞬時に移動できないし、食べ物も価値観も好みも景色の見方も感じ方もぜんぶ違う。AI化しえず、グローバル化もしえない要素が人間性を形成していて、その部分へのこだわりにこそ人間が生きるベースがあるのである。

今後、政治に反映するイデオロギーもナショナリズムに代わるものを探さないといけないのではないか。

人工知能から人工意識へ開発の中心が移るとき英語ベースの開発でいいのか?

「英語で読む世界潮流」というシリーズ記事を掲載する予定なのだが、今後の政治やイデオロギーは、AIや自動化による大変化を前提に作り替えていく必要に迫られるだろう。新しい時代では「英語とつきあう」意味も激変せざるをえないと思われる。

これまでは英語一人勝ちの時代だった。AIや自動化の理論、設計、開発の歴史を見てもわかる通り、圧倒的に英語の世界である。英語ができなければ研究に参加することさえできない。

いままではそれでよかった。では、今後もこのまま英語が伸していき、英語ができない人間は取り残されていくのだろうか?これは議論のあるところだが、必ずしもそうならないのではないかと思う。

例えば、AIの先にはAC(人工意識)の開発が待っている。知能は論理記述なので言語の差異はあまり問題にならず、英語ベースのプログラミングで事足りた。

しかし意識となるとそうもいかない。意識は論理思考では記述できない部分に関わるからだ。コードを記述する際、既存の英語ベースのプログラミング言語でいいのかどうかさえ未確定だ。意識は感情や魂の領域に踏み込むことになる。

そうでれば英語が依拠しているキリスト教、唯一神教崇拝の文化だけをベースにしていいのか?他宗教や異文化の要素を取り入れるとしても、英語に翻訳すればいいのか?翻訳しえない部分はどう処理するのか?切り捨てるのか、拾い上げるのか?拾い上げるとしたら、記述言語はどうするのか?課題は尽きないのである。

インド=ヨーロピアン系言語のみで人工知性(AI+AC)をつくることに抵抗感がある。人類の経験や智慧や感性の一部しか取り込めないことが予想されるからである。

こう考えてくると、EFL国日本の優位性が浮かび上がってくる。英語やフランス語ではなく、母国語でハイテクでも新理論でも何でも処理できるからだ。

  • まず追加投資を必要としない学習環境、研究環境はすでに国内に整備されている。
  • 次に日英両言語で設計開発を進めることができる。他国の研究機関へのフィードバックが容易である。
  • 第三に人工意識の研究領域は仏教に代表される東洋哲学の助けを必要とする。一神教だけでは人間の知的体験ぜんぶを網羅することができないからだ。他にも考慮すべき異文化や異宗教はあるだろうが、一神教信仰に最も補完的なのは仏教、もしくは神道の習合を受けた禅である。

日本のワビサビ文化や無の文化が人工意識の開発で大きな役割を果たすだろう

そう考えていくと、日本語は英語を補完する言語になっていく可能性が高い。日本人研究者は優秀だ。彼らにはやはり母国語で考えることが一番効率的で生産性が高いだろう。

一般論のレベルで言っても、いまの人工知能に欠落している意識や感情の分野で優れた成果をあげられるのはロゴスの西洋文化ではなく、日本語の基盤上に立つワビサビ文化だとトコシエは見ている。

人類史における日米の衝突と同盟関係に意義があるとすれば、分担ということなのではないか?相互補完といってもいい。神道と仏教をバックボーンとするアニメ文化やオタク文化やロボット技術や自動車製造技術はいよいよ人工意識化へ統合される段階に移行する。そのとき、日本人は主体的な役割を果たさざるをえない。神様はそのときのために日本語をとっておいてくれたような気がする。

  • 英語で概念的整理をすれば、AIは Artificial “Intelligence” だから、あくまで計算力とパターン認識がものをいうロゴスの世界である。いかにも西洋人が得意な分野。
  • ところが、そこには人間のこころ、感情、霊性、魂といった要素がまったく備わっていない。研究もまだ理論段階で数んでいないらしい。いわゆる人工意識(Artificial Consciousness)に関わる研究開発である。ロゴスより奥深くにあって、直観的に根源的な判断をくだす機能だ(本能、感情)。 この部分が技術的に表現できれば、いよいよ人間は神あるいは仏に近づくのかもしれない。
  • もうひとつ身体性の問題も重要になってくるだろう。人間は自己の欲望や世界観を外界へ投影することで環境へ働きかけるのだが、その働きかけが今日の環境破壊問題を生んだとしたら(ecological disruption)、今度はその破壊の力が情報技術やバイオ技術を介して人間の内部へ投影される順番である(technological disruption)。人工知能と人工意識が統合された人工知性を、いかに無害に人工身体へ実装するかは大きな課題になるだろう。人間は身体と知性の関係について再考を迫られる。必要なのは二元的存在論の西洋哲学以上に、仏教の色即是空の世界観である。

AI時代に相応しい政治経済システムを考え出すべきとき

そうした新時代においてすでにグローバリズムは所為の現実となっているはずだが、より重要視されてくるのはその所為の現実においける、個々の国民の生き方だろう。人工知能が意識を持つ前に、もう少しましな政治や経済にしておかないといけない。

20世紀後半から人間は同種における大量殺戮という例外的な動物行動をとらなくなった。人間が反省して道徳的になったからではない。核兵器と冷戦をもたらしたグローバリズムのおかげである。

兵器の代わりにマネーという武器を使うことを思いついた人類の一部は、マネーを通じて世界をコントロールする術を見つけた。しかし、殺人は減ったが貧困はむしろ増えてしまった。今後は人類レベルでの厚生福利を考えなければいけない。

当然、お金のシステムも人工知能時代にふさわしいスマートなものに作り替える必要がある。一部の人間の恣意で全体が動かされるような、あるいは歴史的に構造化された差別により経済格差や所得格差が制度化されているような、殺伐とした有様を卒業すべきときなのだ。

仮想通貨もそのような視点で考える必要があると思う。この辺のテーマについては今後も考察を重ねていきたい。